2005年2月、母を老衰で見送った。母はコマチのことでは日頃からぐずぐずと文句の絶えない人だった。触るのも嫌がるほどコマチを毛嫌いしていた人だ。・・やれ、糞尿の臭いが自分の部屋に流れて来てこもるやら、吠える声がうるさくて耳がキンキンするやら、犬の綿毛を吸い込んで咳が出て来たやら、挙句は菓子や果物を出すと、「コマチに先にやったんやろ?お母ちゃんは犬の後かいな」などと勘ぐって下卑たイヤミまで飛び出す始末だった。それも珍しい頻度ではない。
かつてブルにした仕打ちが物語るように、縁あって家族の一員になった愛すべきペットですら、母にとってはただの卑しい下等動物にすぎなかった。ペットを飼う価値が見出せなかったのだ。そんな人だから娘が犬を可愛がることも面白くなかったろう。ましてや、娘の関心が犬に向けば自分への愛情が希薄になり、介護が疎かになるかもしれないと母なりに危ぶんでいたふしもあった。母って人は姉と弟にしか母性愛を感じないわがままな性格のくせして、さして愛していない私にも、某かの魂胆が見え隠れする欺瞞だらけの情を絡めて血の愛情をおねだりする人だった。そういう母だから、自分を差し置いてコマチばかりが愛されているといった僻み根性を抱いたのだろう。
言葉に言い尽くせないほど自己本位で不実な人だったが、この世に生を与えてくれた紛れもない実母、血の繋がりは重い。母がコマチを嫌がれば、どこかでコマチを可愛がることの遠慮が私にあった。その証拠に、母が亡くなってからコマチをかわいいと思える感情に何の障りもなくなった。誰はばかることなくコマチを可愛がれるようになったのだ。・・・ひとしおコマチに愛情が増した。
母が逝ってから、愛犬を抱きしめることが多くなった。様々な感情を織りなしながら介護してきた母がいなくなって、ぽっかり空いた心の穴を埋めたかったのかもしれない。
買い物から帰って来ると、誰もいない3LDKの家。玄関に入ると、もうずっと前からそこでクンクン泣きながら待ち侘びていたのだろう、コマチがちょこんと玄関マットの上で嬉しそうに「お帰り」の大サービスで迎えてくれる。思わず彼女を抱きしめてしまう、抱きしめずにはいられなかった。・・・長時間の外出ともなるとたいへんだ、喜んで興奮したコマチが鼻をフガフガ鳴らして私の抱擁に応えてくれる。・・・今から思えば愛犬と情愛を通わせたかけがえのない時だった、愛の縁薄い私には殊更に。
母が亡くなった2005年当時、コマチの体はこれといった異常も見られず、私はこの子が順調に年を重ねてくれていると安心しきっていた。フィラリア予防薬の服用とワクチン接種をきちっと守り、ドッグフードを与えておれば平均寿命(15歳〜18歳)は当たり前に生きれると何故か楽観していた。・・・迂闊な判断だった。まさか次の年の春には、愛犬の死を覚悟しなければならない状況に陥っているとは・・・・・
コマチの体に異変が見られ出したのは2006年2月の初旬頃だった。右手の、人間でいえば内手首の少し上あたりだろうか、ペロペロ舐め続けているから変だなと思って見ると、表皮が1cmほどぱっくり開いて中から違う色の皮膚が盛り上がってのぞいていた。コマチが怪我をした覚えはないし、何だろうと娘とふたりで患部やコマチの体中を見ているうち、今度は左手の、人間でいえば肘の所だろうか、ゴロっとした瘤を娘が見つけた。直径1.5cmほどのわりと固いもので、皮膚の中でゴロゴロ動く感じがした。
「お母さん、これ、癌と違うんか?」
「えっ?!・・違うやろ、そんなものと・・・・・」と打ち消したものの、右手の傷といい、この瘤といい、コマチの体になにか尋常じゃないことが起きている不安は私の中で強まるばかりだった。取りあえずかかりつけの病院で診てもらうことにしたが・・・・・
かかりつけと書いたが、実際はフィラリアとワクチンの年2回だけ来院する動物病院だった。私の境涯ではブティックと同じほど近寄りがたい場所なのだ。4月のフィラリアは検査と薬で8,000円、11月のワクチンは7,000円だったと思う。その時期になると、私なりに大枚をはたく覚悟でコマチを病院に連れて行ったものだ。フィラリアやワクチン以外で通院したのは2001年の耳の湿疹ぐらいだったか、そのときも治療代にヒヤヒヤした覚えがある。今回は湿疹のようなどうも簡単なものではなさそうだから、よけいにお金の心配が重くのしかかった。折りしも、遺産は食い潰して残り十数万円、まさに家計は逼迫して瀕死状態だった。・・・しかし、コマチのただならぬ状況に、とにかく一度受診しないわけにはいかなかった。
診察してもらったところ、右手の傷は単なる皮膚病で心配ないが、瘤の方は気になる症状だと説明を受けた。瘤がどういう性質のものか調べるには、麻酔して穿刺し細胞を取り出して検査するしか方法がないと言われた。良性にしろ悪性にしろ、出来るなら小さいうちに手術で除去した方がよいとも言われた。穿刺や手術のとき細胞が飛び散って他に転移する危険もあることはあるらしく、麻酔そのもので命を落とす場合もあるらしい。うちの病院では無理だが、もっと設備の整っている病院を紹介するからそこで詳しく検査するのも一つの方法ですよと言われたときには、私は雲の上の医療を聞いているような虚しい心境に陥った。
以前、加古川でコマチの避妊手術をしてもらったことがある。あの時は医師に、子を産まない犬は乳腺腫瘍にかかりやすいから卵巣子宮摘出手術を受けさせた方がよいと勧められ、コマチの体を案じて思い切って手持ちのお金をはたいて受けさせた。確か、20万円近くかかったはずだ。今回の細胞検査や手術ではやるとしたら一体どれほどのお金が要るのか、今の私には聞く勇気もなかった。
コマチの今後の治療を熱く親切に語っていた青年医師の気を殺ぐのも承知で私は言い切った、危険を伴う医療は一切させたくないし、瘤の治療は何もせずにそのまま様子を見ますと。そう言い放って、皮膚病の塗り薬だけをもらって帰った。・・・危険な治療は別として、精一杯の医療をコマチに施してもらいたいというのが私の本音だったから、実際は後ろ髪を引かれる思いで泣くゝ病院を後にしたのだった。
コマチの診療中にありがたい御仏智は既に授かっていた。その御仏智を頼りに私は決断したのだが、あの場はああしか言いようがなかった。千円以上のお金を出す余裕がないなんて、どうして言えよう・・・・・
医者は、癌は2、3ヶ月で死ぬ場合もあると話していた。瘤がもし癌なら、かわいいコマチはあと数ヶ月で死んでしまうかもしれない。なのに自分は何もしてやれない。何一つ命を助けることをしてやれないのだ。・・・堪らなかった。私を見つめる無邪気な黒目に、真っ白い悲しみを覚えた。いたたまれなかった。感情に追い詰められて、自分の心がむちゃくちゃに崩れて行きそうだった。仏様から授かったありがたい御仏智でさえ理性の彼方に霞んでいる。暗く破壊的な恨みの感情が次第に私を虜にして行った・・・・・人並みに犬を飼える境涯じゃなかったけれど、なんとか普通に飼ってやりたくて懸命にがんばってきた・・生活が苦しくてもっと安い家賃の所に変わろうとしたときもコマチがネックになったが、命を御本尊様にお任せして決して愛犬を見捨てることはしなかった・・コマチに対するこれまでの一途な思いや努力の報いが、今こそ愛犬を守ってやらなければいけない大切なこのときに、為す術のない自分の無力を曝け出すことだったのか!・・どうして、御本尊様は護ってくださらないのですか?コマチを思ってあれほどお題目をあげたのに・・あまりにも理不尽です!
あろうことか、御本尊様まで恨む悩乱ぶりだったが、やること為すこと報われず、命がけで愛した真実すら表に出ることもなく、いつも地獄の結果で終わる悪因縁で生きてきた人生があまりにも辛くて、いっそう苦しみが掻き立てられるのはわかっていても、独り台所で、これまでの不運を再現しては泣き喚くしかなかった。
『落ち着きなさい。コマチは必ず救われる』不可思議な声が、恨みに狂い立つ私の生命に聞こえて来た。凡夫の理解を超えた厳かで凛然たる声、何人も汚すことのできない清浄な響き・・・もったいなくもありがたい仏様のお言葉を頂戴したのだった。
『コマチにとって大事な時だよ。南無妙法蓮華経を唱えるんだ。・・・お前の信心で守ってやらなかったら、誰が守るんだい?』裏の世界で、一心に愛してくれる生命もまた、私を導き、支えてくれようとする。
日蓮正宗の信仰は最後は必ずこれでよかった、護られて助かった、この程度で済んだ(罪障を軽く受けた)ということを実感できる教えだということも分かっていたし、まじめに熱心に純真な信心を貫けば貫くほど、ありがたい実証を顕著に体得できるということも未熟ながら今までの体験で確信していた。が、実際、気も動転するような苦しい状況に立たされると、日頃から地道な仏道修行を積んでいても、なぜ?どうしてこんな目に?という愚かな迷いが生じて感情的には信心を見失いそうになる。
コマチのこともそうだ。何の治療も受けさせてやれないのに、どうして救われるという御仏智を頂いたのか私には謎だった。でも、結果はいつもそれでよかったんだという功徳を頂ける御本尊様の教えだから、コマチは確実に救われるのだろうが、愛犬を思うと私の愚鈍な頭なりに推察せずにはいられない気持ちだった。・・・で、二つのケースを考えた。
一つは最善の場合で、コマチが治療を要するほどの病状じゃないということだ。瘤も良性で何ら心配のないものだから、医療費が捻出出来ないからといって絶望することはないと仏様が導いてくださっている・・・・・
もう一つは最悪のケースで、コマチはもう何をしても助からないから、治療や検査で愛犬を苦しめるよりは自然に任せて命終を迎えた方がコマチの為だと教えてくださっている。いわばホスピスのような環境でコマチを送ってやりなさいということかもしれない。といっても、末期医療(点滴等)を受けさせてやるだけの経済力が今の私にはなかったから、その分お題目をたくさんあげて、少しでも楽に臨終を迎えさせてあげなさいということなのか・・・・・
当然だけれども、私は全ての望みを最善のケースにかけた。御本尊様の護りはコマチの瘤が実はなんでもなかった、ただその一点にあると信じ込みたかった。・・・しかし、甘ったるい願望だった。。3月、4月と月日を追うにつれてはっきりしてきた。コマチの瘤はどんどん大きく膨らんで、赤黒く、血管が浮き上がって不気味な色になり、誰が見ても重篤な兆しを察知できる状態になっていった。
どんな姿になってもとにかく生きていて欲しい、かわいいコマチを絶対に失いたくないという思いが強かったせいか、あるいはお金がないばかりにコマチに治療を受けさせてやれない後ろめたさのせいか、たぶん両方だろうと思うが、私はまだ、瘤が良性だという一縷の希望(医者は良性の瘤でも大きくなると話していた)に未練がましくしがみついていた。反面、感情に振り回されて現実を直視できない姿勢や、感情が邪魔をして正しく御仏智を捉えようとしない弱さも自分なりに十分認識していた。コマチの死の覚悟は絶えず私の心にあったのだ、ただ感情が断固それを拒絶していた。
いつもコマチのトリミングを頼むペット美容室に、ワンちゃんに着物やドレスを着せて写真撮影をしてくれるオプションサービスがあった。年賀状用の写真で料金は700円と安く、以前からコマチにも利用してやりたいと思っていた。大きくなって来た瘤を見て私が撮ろうと思い立ったのは4月の半ばだった。店主には怪訝な顔をされたが、コマチの病気のことを話し、もしものときの思い出に残したいからと無理を聞いてもらった。
赤いおべべを着て飾り松といっしょに写っている写真には2006年、コマチと印刷されている。この頃のコマチの顔はまだ元気そうだ。・・・私は写真をパソコンの傍らに置いて、この物語を書きながら、時々ふっと目をやったり、じっと見入ったり、「コマチ・・・」と呼びかけたりしている・・・・・
今も生活はなにかトラブったら2ヶ月先の命の保障もない、薄氷を踏むようなその日暮らしを辛うじて続けているが、コマチの具合が悪くなった2006年、つまり去年は貯金もほとんど底を突き、そこへ2つの掛け持ち仕事で体力の限界にきていた娘が非正規雇用ながらも高時給の会社に転職し、喜んだのも束の間体調を崩し、医療費はかかるわ、収入は減るわでもうダメかと何度も思ったほど生活苦に追い詰められた年だった。コマチの晩年は運悪く、私たち一家にとって生活が破綻して自殺するか、何とか生き延びれるかの生と死のギリギリの境目を這いずり回った年だったのだ。
大阪へ来た頃のコマチのトリミングの回数は毎月だったが、2003年あたりから次第に間が空き、2005年には3ヶ月に一度の割合になった。私の美容院も当初2、3ヶ月に1回だったのがどんどん減り、昨年は半年に1回、今年はもう9月になるがまだ一度も髪を切っていない。自身がこんな有様だから、コマチにももうちょっともうちょっとと引き延ばし、毛玉が出来る一歩手前まで辛抱させていた。・・・かわいそうなことをした。生きる為には節約するしか術のない、稼げない能無しの飼い主だった。
境涯がよくなったら、自由にお金が使える暮らしぶりに変わったら・・・私たち母子の現実では天地が逆さになっても叶わない夢だが、御本尊様の大奇跡を信じ抜いて、私と娘とコマチでひっそり肩を寄せ合って歯を食いしばって来たここ数年だった。御本尊様の大奇跡、それは母が己の偏愛から幼い私に封印した真実を白日のもとに明らかにすることだった。その封印を解こうともがき続けた私の人生だったが、仏様の護りなしに一度も叶うことはなかった。私に御本尊様の大奇跡を起こす使命があるのなら、いやあるのだろう(御仏智では授かっていたが、愚かしき凡夫ゆえに確信が揺らぐことも多々あった)、且つその使命を果たし得た時、私はあらゆる不幸な悪因縁から永劫解き放たれると仏様は教えてくださる。同時に、私を苦しめてきた全ての逆因縁の人たち(無論、母もだ)をも救うことができるとおっしゃるのだ。・・・そうなれば、すなわち悲願の大成仏を遂げれば、この苦しい困窮生活も自ずと改善されるものらしい、たとえ望まなくても。・・・その日を心待ちにしてがんばってきた私たちなのに、コマチが先に逝ってしまうかもしれない。私は悲しく焦った。
お金が出来たらコマチにあれもしてやりたい、これもしてやろうと楽しい幸福な夢を勝手に見続けていた。愛するワンちゃんに存分にしてやれない、自身への言い訳だったかもしれない。
街に桜がにぎわい出す頃、コマチに裾にレース飾りのついた、オレンジと白の格子模様にハートの図柄をポイント的にあしらったおしゃれなワンピースを買ってやった。2,300円と大出血の奮発をした。ワンピースが似合うように、飼い主も愛犬も久しぶりに美容院へ行ってさっぱりと小奇麗にし、コマチにそのおNEWを着せて自転車の前かごに乗せ、花が彩る街中を走り回った。
自転車の先っぽにちょこんと座って、ひらひらレースの可憐な洋服を着せられたワンちゃんを見て、「まあ、かわいい!」と目を細める通行人も一人や二人ではなかった。コマチは果敢ないものをアワレに思う人々のまろやかな視線に頓着もせず、流れゆく景色が物珍しいのか、向かってくる春風が心地よいのか、うっとりとした風情でかごに乗っていた。飼い主の愛情を確かめるように、時々甘えた顔で私を振り返った。
イチョウ並木の道路からちょっと入ったところに、周りを中高層住宅に囲まれたわりと広い公園があった。其処が私とコマチのお気に入りの場所だった。公園の中心に直径10mほどのブロック舗装された円形の広場があって、周囲を桜の木がぐるっと囲んでいた。桜が満開になると、花が広場の上の小さな空を蔽うように咲き乱れ、その下をコマチを乗せて自転車を走らすのがとても感動的だった。手を伸ばして花びらを2、3枚摘み、コマチの頭の毛に絡ませて「花のワン子」にしてはたわいなく喜んだものだ。
其処の公園は午後や土日は子供や近所の花見客で人が集まるが、平日の午前は閑散としていた。私はリード無しでコマチを放してやり、広場や遊具のある方へも足をのばしていっしょに散策をした。といっても、コマチは一目散に走って行ってしまう。「来い!」で戻って来ても、また突っ走って行ってしまう。5分ほど自由気侭に動いた後は立ち止まったきり、もう動かなかった。瘤のせいで早く疲れるのかしらと不安になったものだ。ある日のこと、やはりじっとしているコマチを抱き上げ、広場まで戻って自転車を止めてある一本の桜の木の下で下ろしてやった。
自転車をちらっと見て、早く乗せてくれと言わんばかりに私を見上げているコマチ、この子、大丈夫かしらと立ち竦む私、頭上には今にも散り果ててしまいそうな咲き切った桜、黒い予感がふいに胸をよぎった。・・・果たして、この構図の光景を私は来年も見ることがあるのだろうか?!
私とコマチの切ない思い出作りになった自転車散歩は、赤、白、ピンクの花が艶やかに競い合う街路の女王、華麗なツツジが強い日差しに疲れを見せ始めた初夏まで続いた。
ジメッとしつつも涼しかった梅雨が明け、夏本番の太陽がギラッと照りつけ出した、確かその年も例年並みの猛暑になった7月も下旬近く、コマチの食欲に変化が現れた。朝食べなかったり、晩食べなかったりと食欲にムラが出て来たのだ。食べないのに任せてそのまま放っておくと食い気がすっかり失せて、大好きな牛乳やボーロちゃん(犬用乳ボーロ)までそっぽを向く食い気のなさだったから、食べない時はチーズや牛乳で食欲を誘ってドライフードを食べさせたりしていた。8月もこんな状態が続き、9月に入ってからは一段と食欲が落ち、末頃には全くドライフードを受けつけなくなった。この時点で加齢による夏バテかもしれないという希望はすっかりなくなった。
10月に入ってから、コマチの大好物だったご飯とレトルトドッグフードを混ぜあわせたものを食べさせたり、人間食により近いグルメドッグフード(1パック118円)というものを与えたりしてみたが、どちらもいずれは食べなくなった。この頃からカタクリに色をつけたような粘液便を大量に出したり、朝胃液を吐いたり、食べ物を嘔吐するようになった。
本来ならコマチがドライフードを食べなくなった時、即刻病院へ連れて行くべきなのだろうが、恐くて行けなかった。私の頭には癌が進行して転移し、末期状態になりつつあるから食事が摂れなくなってきているという思い込みがあった。病院へ行けば必然点滴の処置があるだろう、また食事が摂れないワンちゃんの水分や栄養補給にはそれしか方法がない。私は既に電話で点滴の費用を問い合わせていた。2,800円だった。隔日打ったとしても1ヶ月で42,000円かかる。・・・とても払えなかった。
10月半ばから与え出した、最後の切り札だった高級ドッグフードも食べれなくなると、もう長くはない・・・さすがに私も諦めざるを得なかった。感情的にはコマチの死をどうしても受け容れがたかったが、愛犬の病状を目の当たりにして、これ以上の苦しみを味わうことなく楽に逝かせてやりたい、この世に思い残すことがないようにしてやりたいという思いが次第に強くなって行った。
コマチは、夫がずっとやっていたこともあって人間の食べ物がなにより好きだ。食欲がないときでも人間食なら食べてくれるかもしれない。あれほど欲しがっていたのだから、飼い主も愛犬も心残りがないよう出来るかぎり食べさせてやろう、そう考えて、11月9日に受診して病名が判るまでコマチが喜んで食べれそうな物を思いつくままに与えた。基本的には私たちの食事をアレンジしたものだが、コマチにだけ半額の鰻や国産牛肉を買ってきて食べさせたり、高価な物は経済的に続かないから100g99円の輸入肉を焼いて愛犬の食事にあてたりした。コマチは嘔吐や下痢を繰り返しながらも比較的よく食べてくれた。全然食べれない時は食事の代わりにお経を読み、お題目を唱えた。病状に波があって、もうダメかなと思ってもまた食べ出すといった状態が続いた。
具合の悪いコマチを慰めてやろうと、色づく木々が否応なしに淋しさをかもし出している秋の街をあてもなく自転車で走ったり、抱っこをして歩いた。
コマチが今生生きた証を残そうと、家族一緒のスナップ写真も撮った。コマチはキョトンと愛らしく、なぜか美しく、娘はぐっと大人びて、私は泣きそうな顔を無理に作り笑いしたヘンな表情で写っていた。もっときちんとしたものをと、1万円出費して写真館にも行って撮ってもらった。
コマチの病状日誌を兼ねた日記を付け出したのもこの頃からだ。
その年も元気なワンちゃんの為のワクチン接種の案内状がいつもと変わらず届いた。11月9日、コマチが打てる状態かどうか分からなかったがとにかく連れて行った。結局、食欲不振や下痢、嘔吐に加えて39℃の微熱もあったからワクチンは到底無理だろうという診断を受けた。4月に抜歯で受診して以来7ヶ月ぶりの診察だったので、私もコマチの今の病状や瘤が原因で食欲不振が起きているのかなど、聞きたいことが山ほど積もっていたから医師に色々訊ねてみた。が、「検査をしてみないかぎり判りませんね、何とも言えません」と、冷めた答えばかりが返ってきた。医師のそっけない態度は、春に瘤の診察を受けた時、治療は結構ですと私が断ったからだ。
診察台に乗せられたコマチに付き添いながら、飼い主としての私の居場所が診察室のどこにもないのを痛いほど感じた。・・・堪りかねて、
「血の検査をしたら、癌かどうか判るんですか?」
「判りませんよ、肝臓や腎臓の機能を調べる検査ですから・・・ご飯が食べられない原因は判るかもしれません」
「じゃ、してください。どうして食べれないのか知りたいんで・・・お願いします」
検査の費用はワクチン代として用意して来たお金を当てればなんとかなる・・・苦しい懐具合の算段をしながら結果を待った。
「腎臓が悪いですね・・・尿毒症を起こしています」
「尿毒症?!」
医師はレシート様の紙を見せながら、あの熱っぽいトーンで腎臓の数値を説明し出した。訳の分からない横文字が二つ縦に並んで横にコマチの数値と平均値がはじき出されていた。「平均値?」と訝ったほど、コマチの数値が飛び抜けて大きかった。
「この値だと、2週間ぐらいしか生きられませんね。・・・それにしてもこの子、元気そうだな、嘔吐も痙攣もないし」
「2週間!・・・・・手の瘤のせいですか?癌が転移して腎臓に来たんですか?」
「それは判りません、検査してみないと・・・元から腎臓が悪かったかもしれないし」
「これからどうしたらいいんですか?どう対応したら・・・?」
「腎臓の機能を高める薬を入れた点滴をしながら、定期的に検査をやって様子を見て行くしかないですね、食事も病院食を与えて・・・・・効果が出れば1年ぐらいは延命出来るかもしれない」
・・・点滴!・・・定期的な検査!・・・・・到底不可能だわ
「何も処置しなかったら、どうなるんですか?」
「嘔吐や痙攣がひどくなって、苦しんで死にますよ」
「・・・そうなったら安楽死ですよね、麻酔で楽に死ねるんですよね?」
「睡眠薬です。・・・痙攣を起こしているときに注射すればすぐ死にますよ」
「わかりました・・・もし、そのような状態になったら安楽死をお願いします。・・・コマチに治療を受けさせてやりたいんですけど、うちの事情ではとても無理なんで」
またも医師にそう言い切って、検査代金4,800円を支払って病院を出た。その場にいた人たちの視線が背中に貼り付くのを感じながら・・・・・
帰路、涙が止まらなかった。
医者にはああ言ったが、本当は私は安楽死を望んでいなかった。段々と弱っていく自然な流れの中でコマチを逝かせてやりたかった。そうすれば臨終の時の苦しみが最小限に止められる。(母の臨終でそのことを体験し、確信を持っていた)だが、今の状況からするとその願いは叶いそうにない。コマチはまだ心臓もしっかりしていると医者は言っていた。ごはんも食べれる体力は残っている。このまま進んで行くと体の衰えより先に腎臓が機能を停止してしまうだろう。医師から説明を受けた通り、のたうちまわる最後が待っているのかもしれない、安楽死の処置が絶対必要な。点滴がそれを避ける唯一有効な手段らしい。勿論点滴が効けばの話だが。ワンちゃんによっては点滴が合わない場合もあるらしいから。
コマチに、なだらかな曲線で死を迎えさせてやりたい。点滴を打てばそれが叶うかもしれないのだ。・・・いや、ひょっとして点滴で延命させている間に私たちの境涯が変わって、医師が話していた人工透析だって受けられるかもしれない。さらなる延命が可能になるのだ。・・・どうしても点滴を打たせてやりたい!頭がパニクるほど思い詰めた。―――しかし、
その時うちにあったお金はたった16万の貯金だけ、それが私たちの全てだった。娘の収入は交通費込みで月平均して19万、1日でも休めば18万を切った。家賃は10万、光熱水費、電話、保険の支払いが少ない月で2万5千、定期的な医療費が3千、市・府民税が月2千5百円(現在は倍の酷税になった)、娘が働く為の維持費が交通費込みで1万5千、残り4万余りが食費・日用雑貨になった。どんなにシマツしても不意の出費は避けられないし、こんな火の車の時にかぎって思わぬ病気になったりもする。唯一頼りの僅かな貯金は毎月確実に減りつつあった。
うちの支出で突出した10万の家賃は当然身に不相応な所に住んでいるからだが、安い賃貸に替わろうにも、もう、敷金に充てるお金も引っ越し代もなかった。だいいち、保証人を頼める知人や親戚もいなかったのだ。強いて言えば親戚はいる、私にも自殺した夫にも兄弟が。が、ここ数年、その縁者たちとも音信が絶えてしまった。絶えるきっかけはこちらから連絡しなかったせいもあるが、10年、20年経っても向こうから連絡して来ることなど先ずあり得ないだろう、私たちが大金持ちの親子にでもならないかぎり。低い境涯の者とかかわりあうのは損して得なし、寄り付かせて金の無心でもされては大変と邪険か無視を決め込む縁者たち、浅ましくて書くのも躊躇するが、彼らは葬儀に集まる香典の金にも汚かった。こう書けば、生活が苦しいから金欲しさに香典をめぐって兄弟と醜い争いをしたのかと誤解されるかもしれない。それも心外だから、その時のエピソードを出来るだけ写実的に記すことにしよう。・・・・・話は本筋から逸れるが、私がどのような周囲環境でコマチを見送ったかということを正確に知って頂く意味においても、やはり書かねばならないと思う。
まず、夫の葬儀の時だ。離婚した私が何故別れた夫の葬儀を出すことになったか、その経緯については別の機会で述べることにして、夫は元社宅の住居で縊死しているのを会社の関係者によって発見された。死後5ヶ月経過していた。長年勤めていた会社をリストラされ次の職も決まらず、住居の立ち退きも迫られていたらしいから、察するところ生活が行き詰まったことが自殺を決意させた直接の原因と思われる。事情が事情だけに、参列者がほとんど夫の身内というひっそりしたものだったが、会計を担当していたのが夫の弟夫婦だった。葬儀が終わって香典はどうしましょうと喪主の私に親切げに尋ねてくるものだから、じゃ、返しをお願いできますかと、私も弟に全幅の信頼を寄せて任せた。が、それっきり、2ヶ月経っても返しをしたという連絡もなければ精算したお金を渡してくれることもなかった。堪りかねて弟に問い質したところ、ちゃっかり自分の口座に香典の金を入れていたのだ。娘と一緒に弟の家まで行って、嫌な思いをして返して貰った。情けなかった、こんな仕打ちを受ける自分が。
次に、母が亡くなった時だ。天台宗の家の跡目を継いだ長男の弟は、私が日蓮正宗の葬儀を執り行うこと自体端から気に入らなかったようだ。跡取としての面子もあったろうが、昔から親兄弟にオチコボレの阿呆扱いされてきた私が喪主になるのは「なんで、こいつが!」と、ムカツクっていう程度じゃ収まらなかったんだろう。世間体が悪いと考えたかもしれない。
私が葬儀代として用意できたのは、互助会に積み立てていたものと手持ちを合わせて70万がやっとだった。それでは足りなかったので、姉弟に30万ずつ出してくれるように頼んだ。が、姉弟の会社関係が結構来ることがわかったので葬儀費用は何とか賄えると思い、あんたたちは出せるだけの額でいいと姉弟に言い直した。すると弟が葬式は俺らが出してやる、その代り香典は全部俺らが取るからなと言い出したのだ。要するに弟は自分たちの縁で集まる香典の金で私に恩を着せて、自分らが葬式を出してやったと言いたいわけだと解釈した。
私には6年余りの間、分与された遺産をつぎ込んで母を精一杯介護してきたプライドがある。その母の葬儀に名ばかりの喪主にされるとは、それも本来なら喪主が受け取るべき香典を奪われた挙句に・・・・・屈辱で頭に血が上った、
「なんで天台のあんたに日蓮正宗の葬式を出してもらわなあかんのや、それも香典で!」と言ったとたん、弟は「なにーっ!」と血相を変えて私に殴りかかってきた。咄嗟に姉と下の弟が止めに入って二人がかりで弟を押さえつけたが、それを振りほどこうと弟は顔を真っ赤に怒張させて暴れまわった。
娘は娘で私を心配し、母の遺体が安置された部屋に私を匿い、泣きながら弟に訴えた、「暴力は止めてください!お母さんは体が弱いから暴力を受けたら死んでしまうんです!もし、死んだら私は一人ぼっちになってしまうんです!」
私は我が身を盾にしてかばってくれている娘がかわいそうで、娘が力一杯押さえ込んでいるドアを開けて無謀にも外に飛び出して弟に向かって行こうとした。恐さよりも、弟に暴力を振るわれそうになっている現実が私の頭を真っ白にさせていた。だが、ドアの隙間から見える弟の様子が尋常じゃないことから、御仏智が働いたのだろう、私は窓を開けて大声で叫んだ、「誰か、警察を呼んで!」二度叫んだ。すると、どうだろう、体裁を気にした弟はそそくさと家から出て行った。
葬儀には弟を呼ばなかった。もし、弟が来たら警察を呼ぶと姉に伝えさせた。その仕返しをするように、姉弟は会社関係や他の親戚を一切葬儀に来させなかった。母の葬儀は数人の身内による淋しいものになった。姉は20万、下の弟も20万、香典として出した。
姉弟と音信不通になって2年ほど経った去年盆あたりから、月に一度いつも同じ頃に呼び出し音1回の不審な電話が掛かって来るようになった。最初イタズラ電話だと思ったが、どうも様子が違っていた。かといってうちの安否を知りたい電話でもなかった。それなら最後まで鳴らして私たちが出るのを待っているはずだ。そうでもないのだ。その電話はまるでうちの電話が利用できる状態かどうか確かめているような感じで掛かって来る。電話が利用できるということは電話料金が払えているということだ。電話が止められているということは、私たちの生活がそこまで困窮に陥っていることを意味している。・・・呼び出し音を1回鳴らす人間の思惑とは一体何なのか、何を期待しているのだろう、その相手は。電話が止められるほど私たちの生活が行き詰まった状態になるのを待っているのか、それとももっとエスカレートして、私と娘が命を絶ってウジに蝕まれた死体となってぶら下っている姿を今か今かと想像して、覗き見的に電話を鳴らすのだろうか・・・・・
あまりにもその電話が不快で今年の2月に番号を変えたが、どこで新番号を嗅ぎ付けたか、3ヵ月後にまた執拗に鳴り出した。毎月20日過ぎ、たいてい土曜日の午後、神経を逆撫でる電話は今も掛かって来る。
四面楚歌、孤立無援の私たちの現状で頼りになるのは自分の力しかないのだが、52歳の働き盛りの私は1円のお金も稼ぐことが出来なかった。人間として女性として尊厳と誇りを保てるならば何でもしよう、清掃だって洗い場だって飲食店の店員だって。だが、この体がいうことを利いてくれなかった。少し重たい物を持てば下腹の不快感不安定感が起きてきて腰がくだけていった、体が疲労せば胃の辺りから息の詰まるような激しい動悸が打って苦しみ悶えた。医者に訴えても神経症としか見なされなかったから生活保護の対象にもならなかった。
夫が生きている時は私なりに誠心誠意を尽くしたつもりだ、いっしょに暮しているときも別れてからも。夫が清らかな心で残した生命保険の5百万も、葬儀代、回向に妻として全てを使い尽くした。なのに離婚している、ただそれだけの理由で遺族年金は支給されなかった。・・・・・本当に役立たずの私、母親、飼い主だった。娘が会社で辛い思いをしてヒステリックになると私にいつも吐く文句がある、「みじめで醜いお前に、生きている価値がどこにあるんや!」と。・・・・・更年期を迎えてさらに傷付きやすく壊れやすくなった私の神経には、畜生のいのちで悪態を吐く愛娘の言葉は切れ易い刃物のようにこたえる。スーッと神経を切り裂いて愛の悲しみと混乱の出血を起こさせる。・・・・・そんなとき、コマチが私の傷口を嘗めてくれるように無心の可愛らしさで癒してくれた。
コマチ・・・お前をこのまま無策に死なせるものか!生き延びられるものなら、必ずそうしてあげる!
私は命綱の貯金16万を使う覚悟でコマチに点滴を打たせる決心をした・・・御本尊様の護りが必ず入ることを信じて。
11月10日、コマチを病院に連れて行った。犬の点滴を見て驚いた。人間のように腕から1滴ずつ落としていくのじゃなくて、背中の皮下に液を一気に落とし込んで徐々に浸透させて行くやり方だった。
帰って来てから黒っぽいどろっとした粘液状の下痢をした。口からよだれを垂らしながら、じっと私を見つめる目が救いを求めるように切なかった。夜中になってゼーゼーいい出し、ほぼ一晩中続いた。・・・素人判断かもしれないが、コマチには点滴が合わない、負担が大きすぎるのではという感じを受けた。・・・点滴は1回で止めることにした。
これが御本尊様の護りだったのだろうか?確かに16万を使い尽くしたら、コマチが死んだときに火葬にもしてやれなくなる、それだけではない、私たちが自殺しなければならない可能性だって十分出てくるのだ、たった16万で・・・・・
御本尊様の有り難いお護りは、実は別のところで現れた。コマチに与える食べ物に御仏智を頂いたのだ。尿毒症は腎臓にさらなる負担をかけないよう、塩分やタンパク質、糖質の量に特に気をつけなければならない。私は仏様に導かれるように、偶然「鮭粥」を思いついた。生鮭(秋鮭、近くのスーパーでほぼ定刻に50%offで売り出していた)を湯掻き、その茹で汁でお粥を作り、ほうれん草を湯掻いてみじん切りしたものを加えてほうれん草粥を作った。鮭も粥も分量を決め、計ったものを混ぜ合わせて食べさせた。おやつにはコマチの大好きな茹でさつま芋適量とみかん2粒を与えた。
「鮭粥」を与えるようになって嘔吐も治まり、食欲も比較的安定するようになった。「鮭粥」はコマチが食を受けつけられる間食べ続けた最後のメニューになった。専門家の意見は分からないが、私的には「鮭粥」が点滴の役割を果たしてくれたのではないかと思っている。私の最後の愛情レシピが愛犬になだらかな死をもたらしてくれたと信じている。
11月中旬までコマチの容態は不安定だった。ブルブル体を震わせたり顔や手足をぴくっと痙攣させたりすることが頻繁に起きた。痙攣がひどくなって死ぬのじゃないかと懸命に読経、唱題をあげた。中旬を過ぎると峠を越えたように症状が治まり安定していった。実際12月に腎臓の再検査をしたところ、数値が一部改善されていた。ほっとして年を越し、明るい気分で正月を迎えられた。
この頃コマチは籐の長椅子をベッドにし、其処で寝たきりワン子(長椅子の上で座ったり寝そべったりゴソゴソ位置を変えたりしていた)の生活を送っていた。食事とトイレは抱っこして下ろし、済めば抱き上げてベッドに乗せた。食事の時、床に下ろしてやると一目散でお皿に走って行った。食べ終われば抱き上げて、粥だから口の周りを拭いてやるのだが、それを嫌がって両手で払いのける仕草が人間みたいでなんとも愛嬌があった。ベッドに寝かせて毛布を掛けてやると、如何にも満足した様子で顔を敷物に擦りつけては甘える仕草が私を悦ばせた。
1月、2月、3月と、病状に多少の波はあったが穏やかな日々が流れた。これから先もずっとこの状態が続くと思われた。境涯が良くなったらコマチの人工透析も夢じゃないと性懲りもなく楽天的になり始めた時、そうそう、暖かくなってコマチの匂いが気になってきたから特別な配慮をお願いしてのトリミングも予約したのだ。その矢先、容態が急変した。
4月2日未明、コマチが突然、前日の晩食べた「鮭粥」を全部もどした。嘔吐はそれ1回だけだったが、この日は朝は食べず、晩は食べれたが少し残した。ベッドでの動きもほとんどなく、しんどそうに寝たままだった。明らかに前日までと様子が違った。数日前からお皿をきれいに舐めない、おやつのさつま芋を全く口にしないという状態が続いていたが、某かの兆候はあったのだ。晩方から血の混じったよだれを出すようになった。
4月3日、もう「鮭粥」は食べなくなった。パンの小さなかけら3個を口にしただけだ。血の混じったよだれは、今日になって一段とよく出るようになった。コマチの舌の先の裏側一部が黄色に変色し、臭いも出て来た。
夜、病院を訪れた。腎臓と、勧められて血液検査もしてもらった。
診断の結果、腎臓が機能していないことを示す数値が機械で測定できる最高限度にまで達し、いわば測定不能の状態だと説明を受けた。生きているのが不思議なくらいの数値ですよとも言われた。医師はコマチに痙攣や嘔吐がなく、別段苦しんでいない様子が信じられないといった表情で、「元気そうですね?」と目をパチクリさせ驚いていた。舌の変色や異臭は、「結構臭いがしますね」といいながら診てくれ、壊死が始まっていますよと言われた。私も犬の壊死は知っていた。犬は死が近づくと、体の一部の組織が先に死滅して腐り出すらしかった。
「一週間前にはトリミングの予約をしたんですよ・・・あんなに調子がよかったのに・・・!」私の声は未練の涙に震えた。
「ワンちゃんもこんなに元気そうだし、お母さん、がんばって点滴をしますか?」
元気?コマチが苦しんでいないのは御本尊様の功徳のお陰なんです、と胸の中で呟いた。「このまま自然に逝かせてやりたいと思っています。・・・私の信仰で楽に死なせてあげる決心をしてますけど、もし、安楽死が必要な時はよろしくお願いします」
私は涙声で医師に礼を言って、受付で支払いを済ませた。その時大粒の涙がぽとっとこぼれた。もう二度とコマチを抱っこしてこの受付に立つことがないのだと思い知った涙だった。
帰ってからコマチに夕餉の解凍鮪の刺身3切れを与えた。彼女はおいしそうに食べた。後えずいたが、もどすことはなかった。コマチの今生最後の食事になった。
4月4日、この日から臨終に至った4月8日までの昼夜4日間、私は娘の協力を得ながらコマチに付きっきりで看病し、彼女の最後の命を見守った。コマチの寿命の炎がだんだん小さくなって終にはフッと燃えつきてしまうように、炎が大きく揺らいで一度に消えてしまうような苦しみが彼女を絶対襲わないように、コマチに向かって1日何回も読経唱題をあげた。甲斐あって御本尊様に護られ、彼女は死の前日まで水が飲めたし、尿も最後まで止まることはなかった。コマチの体は日に日に自然な弱り方を見せ、自然な流れで臨終の時を迎えた。恐らく彼女が苦しんだのは、生あるものはみな避けて通れない断末魔の苦しみと、その2時間程前に起きた、壊死した舌からの出血にむせた苦痛だと思われる。
母が亡くなったとき、私は11時間に及ぶ唱題を娘と二人であげた。私たちの思いが仏様に通じたのか、母は眠るままにこの世を去った。コマチにも母のような臨終を迎えさせてやりたかったし、お題目で必ず叶うと信じていた。しかし、畜生の臨終には人間にはない過酷な定めがあったのだ。彼女の死を通して知った。コマチは畜生の定めを立派に全うして今生の生命を終えたのだ。その時の尊い記録と、コマチの密葬、火葬、お骨拾いの様子を日記から抜粋して、この物語を終えたいと思う・・・・・
<4月8日午前3時>0時20分の苦しい症状(壊死の出血でむせたこと)があって以来、コマチは全くウトウトしなくなった。ぱっちり目を開けたままだ。なんとか安らかに逝ってほしい。
<午前3時20分>コマチの呼吸が荒く、体全体を震わせて息をするようになったので、私は再びお題目を唱え始めた。
徐々にコマチの呼吸が臨終間際のそれになってきた。コマチは私の方に顔を向け、うつ伏せで寝ていた。目は一点を睨みつけるように、次第にそのまなざしが逼迫の度を増し、私もただならぬ真剣さでお題目を唱えた。次の瞬間、コマチは苦しさの為か、私と反対の方向へ悶え転がり、長椅子の背もたれで止まってそこで断末魔の息をしていたと思う。頭はのけぞり、手と足はバタバタと動いていた。次第に呼吸と手足の動きは少なくなり、終に完全に止まった。この間1分足らずだと思う。
<午前3時40分> 臨終
心臓が止まってからもピクッピクッと体や手足が動くのを、泣きながらお題目を唱えていても、妙になまなましかったのを覚えている。顔は向こう側を向いていたので見えなかったが、ただならぬ雰囲気に目を覚まして起きてきた娘が言うには、コマチは目をかっと見開き、歯は敷いていた毛布を食いしばっていたらしい。動物は死ぬ瞬間まで意識があることを初めて知った。残酷だと思った。
コマチの動きが完全に止まってから、ペット火葬業者に予約の電話を入れた。
コマチの亡骸に30分、娘といっしょに読経唱題をあげ続けた。
コマチの体を娘といっしょに除菌ティッシュで清め、仏間に運び、安置した。コマチの遺体は横向きに手足をふんばり、口は開き、目も見開いていたが、動物としての美しい姿を呈していた。私は顔から胸にかけて白いハンカチを掛けてやり、足元には彼女が喜んだ散歩服を2着たたんで置いた。枕飾りに樒、ヒルズのご飯を供え、巻き線香を焚いた。
<午前7時50分>コマチの密葬・・・・・方便品、寿量品長行、自我偈、唱題をあげる。
<午後5時30分>コマチの遺体に最後のお別れの読経、唱題をあげる。
<午後5時50分>出棺(お棺はなかったが、生前コマチが愛用していた毛布にくるんで、娘が抱いて火葬車へ連れて行った)・・・・・コマチの顔が、死んだ直後に比べ目がやさしく穏やかになって、畜生ながら神々しいまでの成仏相を現じていた。
<午後6時>火葬・・・・・遺体の傍らに枕飾りの樒、ヒルズのご飯を添えた。業者がコマチの体の柔らかさにちょっと驚いていた。(死体が柔らかいということは成仏を遂げたことを証明している)娘と一緒にお題目を三唱して、コマチを見送った。
<午後7時>お骨拾い・・・・・骨の標本のように、かわいい骨がきれいに並んでいた。色はほぼ白かったが、悪かった腎臓のあたりが茶色い感じがした。娘と二人、できるだけ多く骨壷に収めた、愛犬への思いをかき集めるように。・・・帰り道、春爛漫の夜桜が美しかった。コマチはこの桜花に誘われて来世へと旅立ったのだろうか。
大森コマチ、ポメラニアン、女の子、享年9才10ヶ月・・・・・いとしいコマチ、お前は愛を一杯、私たちの心に咲かせて逝ってしまった・・・・・
春の花 散りゆくほどに 咲き誇る 愛の華たる コマチの如し
(完)