第一章 苦しみの生を受けて
〜長き闇の始まり〜



〜目   次〜

(一)誕生

(二)偏愛
 
 (三)いじめ

  (四)レッテル

 (五)思春期









(一)誕生
 東向きの開け放した窓から淀川の川風が心地よい涼を運んでくる6月の半ば過ぎ、夏美は仏間の経机の前に座って小声で題目を唱えながら、仏具の埃をダスターで払うのに余念がなかった。マンションを東から西、西から東へと吹きぬけて行く湿った風が、梅雨のむしむしした暑さをかなりやわらげてくれる。夏美は年間を通してこの時期が一番、日頃の身も細るような高額家賃の苦痛も緩和され、此処に住んでいてよかったと素直に悦べる時節だった。もっとも、恵みの涼風も梅雨が明け猛暑になると無情にもピタッと止んでしまう。そうなると一日中カーテンを締め切り、東の太陽や西日をシャットアウトして四六時中エアコンを稼動させねばならなかった。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――」
 一心欲見仏の境地になって無心にダスターを動かしていた夏美だが、ふっと、迫り来る酷暑の季節に思いが行った。・・・その手を止め、「はぁーっ」と重く長い吐息を漏らした。
「人さんには鬱陶しい梅雨でも私には有り難いシーズンやわ。そこそこ涼しいし、電気代もかからへん。ほんまに梅雨が明けへんかったらええのに・・・・・」と、勝手な愚痴をこぼす夏美であったが、一時世間を賑わせた彼の切ない崖っぷち犬のような、際どいギリギリ生活を送る彼女にとっては当然といえば当然の嘆きの発露だった。
 折りしも4月から電気代が値上がりしている。エアコンを点ければウナギ登りに跳ね上がる料金が今年の夏はどれ位高くなるのだろうかと、7月からの電気代に僅か数十万円の貯金を崩す事態になりはせぬかと夏美は気が気じゃなかった。電気ばかりじゃない、ガスも気候が暑くなっているのに料金の下げ幅が悪いし、近くの大手スーパーへ行けば唖然とするような値上げラッシュに、頬がこける思いをしたのは夏美一人だけではあるまい。彼女の頼みの綱だった半額引きの肉や魚もこの頃はほとんど20%オフで売り捌かれてしまう。スーパーが少しでも利益率を上げようと餓鬼道まっしぐらになったのか、それとも安い物をゲットしようとする競争がこのところの物価上昇で以前より激化したものか。・・・まあ、娘の給料が一昨年より4万円ほどアップしたことや、慰労金と呼ばれるお金が年に1回30万円前後入ってくることもあって、夏美は一時のような逼迫して崖から飛び降りる覚悟を迫られるほどの心境ではなかった。それどころか、おこがましくも彼女の心にはささやかな余裕すらあったのだ。


 経机の上の仏具の掃除は大方済み、あとは香炉だけだった。夏美は香炉に溜まった舎利のような灰を清潔な匙で減らし、残った灰を本体を左右に傾けながらトントンと叩いて均等にならした後、ダスターで香炉の表面の塵を払った。それからポーチでダスターをはたき、経机の掃除にかかった。不燃性の西陣風の敷物とその下のグリーンの下敷きを捲り、幅45cm長さ1m足らずの黒檀に浮かぶ白い埃を、まるで心ならずも溜まった御本尊様への不信の垢を拭い去るように夏美は払った。・・・その時、居間の電話が鳴った。普段はめったに鳴らないこの家の電話だ。彼女は経机の角に邪魔っけに置かれた安っぽい似非メタリックの時計を見た。
1時前か・・・亜衣かしら?そう思いながら夏美が受話器を取ると、やはり亜衣だった。会社の昼休みで掛けてきたらしい・・・・・
「お母さん、あのな・・・」亜衣のいつもの子供っぽい声が妙に低い。疲れきった感じのかすれ声になっていた。
「うん・・・どうしたん?」
「会社のことやけど・・・来年の契約、無理やわ。・・・最悪のケースになった」
「最悪のケース?・・・どういうことやの?」夏美は会社にいる亜衣を気づかって平静でいたかったが、重く突き上げてくる不安をどうすることもできない。
「来年雇ってくれるのは上司に推薦された人だけらしい、全員やないねん。それも契約してもらうのに試験と面談があるらしいわ」
「・・・推薦やったらまじめに働いてきたからしてくれるやろ。試験かて仕事に関することやったら、あんたも出来るやんか」 夏美は半ば自身を安堵させるように亜衣を慰めた。
「そんなんと違うんや!」
「えっ?!」
「学校の試験といっしょや、中学の数学や英語が出てくるらしい・・・亜衣は学校へ全然行ってへんから、出来る訳がないやろ!・・・それ以前に亜衣、中卒やで!査定の余地なしの門前払いに決まってる!」
「・・・そない言うたかて、今までその学歴で頑張って勤めてきたのに・・・もし、中卒が理由で再雇用してくれへんかったら、殺生やなあ!」夏美は恨みも露わに声を震わせたが、巨大企業の冷血エリートに木っ端の人情が通ずる筈もないと、彼女は追い詰められていった。
「ここだけと違うやん、どこの会社も亜衣、断られたやんか。この会社を紹介してくれた派遣会社が亜衣を採用してくれたのはまぐれやったんや、御本尊様が与えて下さった奇跡や。それも来年の春、タイムリミットや。・・・・・もう切るで、時間がないから」
「ああ・・うん。・・・気いつけてな」夏美は一入やさしい母の声音で受話器を置いた。自分もギリギリ精一杯の思いやりを、同じどん底に耐えている亜衣に伝えたかった。
 仏間に戻って来ると、夏美はしている意識もなく経机の掃除を続けた。口からは題目が消え、手だけが機械的に動いていた。頭の中はさっきの亜衣の話でいっぱいだった。ダークな展開が止めどもなくイマージュされてくる。ほん5分前まで夏美が確かに感じていた、あのちっぽけな余裕の悦びなど今は跡形もなく消え失せ、またしても食い詰め自殺という奈落の底が見え隠れする非情な苦しみに彼女は呑み込まれていった。


 夏美の現実は悲惨この上ない。彼女の場合、生活の破綻は即、命を消滅させるしか方途がなかった。つまり、自殺の選択しかなかったのだ。・・・というのも、悪因縁にびっしり囲まれた彼女にはおよそ友人と呼べる人間は一人もいなかったし、血縁の者からは相手にされず、音信不通の不幸な孤立無援の状態だったからだ。働く因縁も劣悪だった。夏美の体は子宮を摘出してからというもの、本人にも不可解な弱り方を見せていたし、亜衣とて中卒の学歴では、掃除や飲食店のアルバイトといった小遣い程度の仕事しか見つからなかった。今の手取り20万円を稼げる就職口など金輪際ありつけないだろう。唯一助かる道は生活保護しかないのだが、不運な母娘が受給の要件を満たすのは天地が逆さになっても望めなかった。
 命の危険が夏美を脅かすのはこれで三度目だ。一度は父親の遺産が底を突き、もうダメかと観念したときだった。その時は7年余りも閉じこもっていた亜衣が奇跡的に働き出した。二度目は掛け持ちの無理な労働がたたって亜衣に体力の限界が来てしまい、働けなくなった。この時も御本尊様の大功徳を頂いて高収入の今の仕事に奇跡的に就くことが出来た。・・・二度あることは三度あるという。その例え通り、夏美は今度も奇跡を起こすことが出来るのだろうか。・・・出来なければ、母娘は破滅して無念の死を遂げねばならぬ。今回の危機はこれまでと違って助かる可能性がまず皆無だ。よほどの事、世間が仰天するといっても過言ではない大奇跡が起こらない限り、夏美たちは助からないだろう。・・・もし、その大奇跡が起こったとすれば、それこそ三度目の正直で、彼女があれほど待ち望んだ即身成仏の大功徳に違いなかった。
 奇跡、奇跡と書いたが、夏美はなにも棚ぼた式に仏様から功徳を戴いてきたわけではない。彼女がこれまで助かってきたのは、誰一人知る者も理解する者もいなかったが、陰で死に物狂いの求道心と命がけの信行を逆境の中でこつこつと純信に積み上げて来た、日蓮正宗への強盛な信仰心があったからだ。・・・とはいえやはり、人間らしい幸福を手にすることが絶対許されない、極悪の悪因縁に雁字搦めにされた夏美の現実だった。奇跡という名の、限りなくアリエナイ助けが入るまでの彼女の苦悩は底知れなかった。


 さっきから、夏美はダスターを握ったままじっとしている間が多くなった。彼女なりに気力を奮い立たせてなんとか掃除を続けようと頑張るのだが、すぐ手が止まってしまう。よほど精神が落ち込んでしまったのか。・・・どうやら彼女は自身の劣悪な運命に耐え切れなくなって、一時的にせよ御本尊様に不信を起こしたようだ。
 掃除の中途で経机に放り出されひっくり返っている大きなリン、その横で夏美はとうとう突っ伏して泣き始めた。堪えていた感情が一気に爆発してしまったらしい。彼女の人生なんて所詮、物心がついたときからこんなものだった。幼少時の情緒不安定をずっと引きずっているから、悲しみの発作が容易に止まらない。団地内をはばかって声は殺していたが、エーンエーンと幼稚に泣きじゃくる姿は年端も行かぬ童女ならさも可愛げに違いないが、50前のいい年をした、見苦しい脂肪が顔や体にたっぷりだぶつくまで生きて来たオバサンでは、「イイ加減にしろよ!」と憎く蔑まれても仕方があるまい。信心を見失って生き地獄の現実に堕ちた哀れな泣き女の夏美は、悲しくも滑稽で醜かった。
 小さい頃から蓄積された異常な成育環境のヒズミが夏美をそうさせてしまったのだろう、一歩間違えれば精神に変調を来たすほど激しくうねる感情も、ひとしきり泣くと次第に落ち着きを取り戻して行った。大慈大悲に満ちた御本尊様の強烈な護りが入ったことは間違いない。夏美がこれまで極度の家庭不和や経済苦を一人で苦しみながらも、発狂という最悪のシナリオを描かなかったのは、仏様が常に彼女を固くガードしていたからに他ならない。
 では何故、夏美のようなおぞましい因縁の女が日蓮正宗の御本尊様の護りをそうも頂戴出来るのか?勿論、彼女の純真な信心がその理由だが、それだけでは合点が行かない。そもそも彼女みたいに世間からバカにされ、低級なレッテルを貼られている女が純信かつ強盛な信仰を貫こうとしていること自体、誰も信じられないだろう。あってはならないことだ。あってはならぬ存在の、夏美という女の過去世にその理由の大半があるとしか思えない。・・・・・御本尊様の仏眼を拝して夏美の過去世を見れば、―――彼女は無始以来よりこの方、如何なる時代いつの生も命を捨てて真実の愛を貫き通した、極めつきの純情女だった。愛した相手は永遠の人、それもたまたま非凡な男。夏美という女は本人が望む望まぬにかかわらず、極悪の因縁の中で常に永久の真実を貫く生死を繰り返して来た、稀有な徳を生命に刻んだ非凡な女人だったのだ。・・・悲しいかな、彼女の徳は無始以来、邪悪な因縁によっていつも汚され日の目を見ることはなかったが。


『夏美、しっかりおし。・・・だいじょうぶだよ・・必ず護られるから、ね。・・・お題目を唱えなさい』
『・・・あんた・・・・・うん』
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――」
 生命に聞こえてくる密やかな声に、夏美は親を信じきった無垢な子の如く素直に従った。・・・誰も知らない心の中の会話、愛のテレパシー。夏美は或る男の感情に巡りあってその人の生命に包まれて、初めて仏法で説く所の神通力なるものが現実にあることを思い知った。―――或る男とは、彼の長年の信心修行によって日蓮正宗の御本尊様の力用を分際に応じて自在に駆使できる、尋常ならぬ人らしかった。
 物事には表裏両面がある。夏美のような八方塞がりの悪因縁で生きることすらままならない絶望人間に、表立って助けの手を差し伸べることは断じて許されない。法界の厳粛かつ緻密な秩序、掟があるからだ。・・・古に、敢えてその愚を犯した天子、天下人がいた。純愛に溺れた玄宗、秀吉。彼らの致命的迷いが地獄の魔を呼び、多くの悪を惹起してしまったことは歴史が雄弁に証明している。・・・夏美がどんなに哀れで不憫でも、そんな女を助けようとどれほど奇特な心を起こしても、表で彼女を救うことは絶対不可能なのだ。―――夏美は裏の世界でしか助けられない女人、それが仏様の深いお悟りだった。
 御本尊様の御命を受け、自分の生命の内に入れて愛の感情で夏美を守っている、或る男。その男が現実には一体誰なのか、夏美は知っている。・・・彼の年齢も住所も職業も。ただ、裏の世界のことで決して表にその名を口に出来なかった。が、その人が過去世からずっと彼女を身分の違いを超えて言葉では言い尽くせない純愛で慈しんでくれたことも、彼女が永遠に思慕し求めるべき人であることも分かっていた。・・・二人の不可思議極まりない今生の出会いや無始以来の稀有な結びつきを、第四章で詳しく述べることにしよう。

 夏美のおぞましい因縁とは如何なるものか?彼女ほど純真で信じるものに命を捨てる優れた気質を備えていたら、如何にも高徳な両親のもとに生まれ大切に育てられ、誰からも敬愛される女性になってしかるべきなのに。何故いつの生も人に蔑まれる弱い女として生まれねばならぬのか?・・・彼女の真実すら一切出ず。―――夏美という女の生命には罪障が刻まれていた。それも悪人の欲望の犠牲になって破滅するという、とてつもなく重い悲劇の罪障が。・・・罪障といっても夏美が犯した罪といえば、自分を不幸のどん底に突き落し滅ぼした悪人に阿鼻地獄の報いを受けさせたという、感情的には当然至極と思えることではあったが。しかしながら無始以来より彼女の生命は、この極悪の因縁のもとに成り立ち、生死を繰り返してきた。・・・夏美にとってこの極悪因縁とすっぱり縁を切るには、もはや絶対、彼女が命を捨てて日蓮正宗の信仰を貫くしかなかった・・・・・ 


 夏美は敗戦から十年後の昭和三十年夏、旧家に、それも没落した名家に生まれた。不幸な出生だった。父母はおよそ高徳とは縁のない地獄餓鬼畜生界の衆生で、夏美は物心ついた時から、両親のいがみ合う醜悪な怒声で毎朝目が覚めた。
 







(二)偏愛
 冬美と夏美は年子だった。姉の冬美は大寒に生まれたから冬、夏美は初夏の五月が出産予定だったから夏と名付けられた。実際夏美は四月二十八日に生まれた。二人とも父親の進一朗が名付けた。
 


                                              




(三)いじめ