目 次
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(一)
時は天宝十五載六月十四日、天子の一行が長安を逃れて翌日のこと・・・
行宮の外には六部隊が十重二十重にも取り囲み、不満が暴発した兵士どもが楊貴妃への積もり積
もった憎悪を滾らせ、哮り狂っていた。
――あの女は呉を傾けた西施の生まれ変わりだ!妖婦を成敗しろ!
――禄山の反乱も国忠の悪政もみな、あの毒婦のせいだ!
――貴妃を殺せ!淫婦を血祭りにあげろ!
明け方、既に国忠や貴妃の姉たちは自業自得とはいえ、百鬼夜行の近衛兵に惨く殺されてしまった。
人の顔をした鬼が兵士を扇動したのだろうか、子供も一人残らず惨殺された。
虐殺が始まって終わるまでの間、様々な音が聞こえた。・・・剣を振りかざしながら追いかける兵士の
凶暴な笑い、泣き叫びながら逃げ惑う女たちの足音、母を呼ぶ甲高い泣き声、合間に何度も入る「楊
環、助けて!」――獣が獲物を捕らえたときの残忍な興奮のわめき、辱しめられ掻き消されんとする生
命の絶え絶えの悲鳴、真っ赤な剣が執拗に振り下ろされる異様な音、そして・・・・・地獄の果てまで続
いた酷い音は止んだ。後に血腥いざわめきだけが残った。
「姉さーん!姉さーん!」
半狂乱になって行宮から飛び出そうとする貴妃を、玄宗の老いた手が思わぬ力で引き留めていた。
正気を失いかけた目が助けてくれというように何度も玄宗を振り返る。
老醜の顔が悲しげに歪んだ。過去のクーデターの経験が兵士たちの狂気を易々と想像させた。
夜がすっかり明けきって夏の日差しが馬嵬にふり注いだ時、惨劇の後があらわになって目を覆うば
かりだった・・・・・
「楊一族も生きているときは身のほど知らぬな奴と憎かったが、踊り踊らされたあげく殺されてしまえば
哀れな気もする・・・」
随行していた側近の一人が複雑な表情で云った。
「そうですね・・・。悪名高い国忠も大酒飲みで粗暴な男だったが、天子さまがお気に召すくらいだから
なかなか忠義なところもあった。周りにかつがれて出てこなけりゃ、剣で腹を突かれて死ぬこともなか
ったろうに」
同じく随行していた仲間の側近が云った。二人は友人同士だった。先刻の惨たらしい光景を目の当た
りにして気が高ぶっていた。義憤にも似た感情が込み上げてきて話さずにはいられなかった。
「やはり国が乱れる背景には、『開元の治』以後の天子さまのネジがゆるまれたのが尾を引いているの
かな」
「三十年間も勤勉だった帝がどうして急に?・・・あなたは当時から側近でしたね」
「あの頃、天子さまは長年の念願をようやく果たされてほっとされていた。お歳も六十近くになっておられ
たかな・・・」
「・・・・・・」
「是は数人の者しか知らぬことだが。――― 国が乱れる元になるといって隠しておられたから」
「・・・・・・?」
「・・・皇后との仲がずっと険悪だったんだ。ご夫婦の関係も冷え切っておられた」
「それじゃ、ある事件で王后が廃されたというのは?」
「あの事件は起こるべくして起こったんだ」
側近は確信めいた口調になった。
「知りませんでした。お二人の仲がそれほど悪かったとは。皇后は政にも後宮のことにも口を挟まれてい
ましたが、臣下の前では世話女房のお手本みたいな方だったし、我々に対しても帝より話の分かる庶民
的な皇后でしたがね。帝が明天子となられたのも王后の内助の功があってこそと我々は思っていたのに」
仲間の側近は納得いかぬげに首を傾けた。
「そう思わされていたんだ、王后に」
「え?」
「あの方は時折的はずれなことを言ったりして我々が困ったことがあったろう。言うに言えないし」
「そういえばそうでしたね。大抵、帝が後始末されていたが」
「何も分からずに口出しをされていたんだ。要するにデシャバリで慎みのない皇后だった訳だ。それに帝
の悪口をよく漏らしていた。傍で帝が苦笑いされていたが」
「どうして、王后が悪妻だってことに我々は気がつかなかったんでしょう?」
「天子さまはじっと辛抱されていたんだよ。崩壊寸前だった唐王朝を建て直す為に、長い間・・・」
側近はうっすらと涙を浮かべて云った。
「・・それでやっと大願が成就し、長年の辛抱の緒も悪妻との縁も切れて、帝はすっかり気が弛んでしまわ
れたのですか?」
「ご自分が愛しくなられたのかもしれない。・・・歳を召されて」
老齢のわが身と重ね合わせたのか、側近は袖で涙を拭った。
一回り以上若い仲間の側近は怒気を含ませてあとを続けた、
「そこにつけ入ったやつが、林甫です。あいつは重臣の反対を押し切って宰相となってからはクモの巣の
ようなスパイ網をはりめぐらして、自分に逆らう虫、いや人をひっかけ仏面でバッサリ。宮中を思いのまま
に牛耳った極悪人です。奴の悪知恵に比べれば、禄山など赤子同然ですよ」
「その通りだ。林甫こそ、帝と我らが立て直したこの唐王朝を虫食いだらけにした影の張本人さ。奴があ
れほど私欲で腐敗しきった政をして皇帝の権威を失墜させなければ、禄山のような思い上がりも出なか
ったろうに。そう思うと、いかなる理由があるにせよ林甫の跋扈を許された帝の責任は重大だな。・・・し
かし、とぼけ顔でノラリクラリのあの老怪にはわしも酷い目にあったよ。林甫が死んだ時には本当にせい
せいしたな」
「全くです」
こんな非常時に不謹慎とは思いながらも、二人は明るく笑いあった。
日頃悪しざまに言っている貴妃の名が口に上らなかったのは、さすがに楊一族の無惨な死で気が咎め
たか。
天子の一行が長安を出てからずっと続いていた殺気立った雰囲気は、ここ馬嵬の駅で正体を現わした。
実際手を下したのは近衛兵だが、随行したほとんどの者が楊貴妃とその一族の皆殺しを望んでいた。
自分たちに向けられた激しい反感や憎しみが残虐な殺意にまで至っているとは思いもよらず、何も知ら
ない貴妃たちは殺される為に都落ちしたようなものだ。
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(二)
安禄山は貴妃の義理の息子だった。この男には深刻な二面性があった。ぽっちゃりした童顔に、ぼってり
しすぎて老人のように垂れ下がった腹。その腹をコミカルに振り回してクルクルと胡旋を舞う姿はいかにも
奇異な感じを与えた。笑えば八重歯が人なつっこいが、怒ると肝を抉る悪口を吐いた。甲高い声で発する
言葉は人の心に媚びるような響きを持っていたが、相手が変われば低音で冷ややかな、侮辱を露にした
声音になることもしばしばだった。
安禄山は何事においても功利に走ることしか知らぬ男だった。この男が心血を注ぐ相手といえば玄宗しか
いない。性悪女があの手この手で純な男を誑かすように、小賢しい策をめぐらしては寵愛を射止めた。もと
より忠信なんぞあろうはずもない。しかし、この男は林甫ほどの悪知恵もなかった。玄宗を侮り、欲に目が眩
んで、誰の庇護で異民族出の自分が出世できたかがすっかり分からなくなってしまった。かくして天宝十四
載十一月、禄山は大恩ある君主に弓を引き、逆臣に堕ちていった。
貴妃は最初、玄宗同様禄山を信用し可愛がっていた。親子の関係を結んで部屋に出入りするようになった
或る時、突然体に抱きついてきた。貴妃が激怒して、「お前のしたことは絶対に許さぬ!こともあろうに義母
の私に邪念を抱くとは!」と叫びながら人を呼ぼうとすると、「貴妃さま、お許し下さい!ほんの迷いだったん
です。もうしません!二度としません!・・・お願いします!どうか!」と云って号泣した。禄山も必死だった。貴
妃は哀れに思ってその場を許してしまった。これが間違いのもとになった。もし、許さずに玄宗に話しておれ
ば、この男の本心をいち早く見抜けたかもしれない。
漁陽で陣太鼓が鳴り出した時、長安は上も下もそれこそ蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。殊に宮
廷の者たちの変わり身が早かった。つい今まで後光の差した貴妃一族に手を合わせてご利益を頂いた世
渡り上手は、楊氏のあることないことを言いふらし自分の咎を消すのに余念がなかった。そんなオポチュニ
ストを苦々しく思う誇り高き不器用者も、あのまばゆいばかりの天子さまを下賎の身で思う存分わがものに
した妬ましいかぎりの、いや、分もわきまえない恥知らずな憎き貴妃に狙いを定めて、ご利益にあずかれな
かった恨みも込めて、「あの淫婦に責任を取らせろ!」と陰で喧しかった。
「強いものには逆らわず、長いものには巻かれろだ。このセオリーを守らねえから禄山みてえなロクデナシ
が出て来るんだ」
「どういうことだ?貴妃さまのことか?」
「『さま』なんか付けることはねえんだ、あんな淫婦に」
「淫婦じゃねえよ。無理やり連れてこられたんだ、寿王さまのところから」
「たとえそうだったって自分を恨むしかしょうがねえだろ、定めなんだから。それを天子さまが深情けをかけ
て貴妃に立てたりするもんだから、ならず者や強突く張りの女たちが小狡い奴にそそのかされて群がって
くるんだ。あげくは裏切り者の胡人だぜ」
「身分の低い者が上に立てば、やっぱり乱れるのかなぁ・・・」
木っ端のようなわが身を思って、「ふぅー」と嘆息した。
「そりゃあそうさ。もともと上の者はおもしろかねえよ。自分たちに何一つ芸がなかっても身分が物言うん
だぜ。身分も力もないくせに、気位ばかりめっぽう高い女が上に立てば黙っていられないのも当然さ。皆
が目ん玉飛び出すような、すげえ立派なことをやって立つ分には誰も文句は言えねえけどな」
「だったらよ、責任取らなきゃいけねえのは天子さ―――」
シタリ顔の男が慌てふためいて連れの口を押さえた。
「あんまりなことを言うもんじゃねえよ。お前、メシ食えなくなってもいいのか?」
「!・・・・・」
禄山が反乱を起こしてからというもの、長安は上も下も畜生の命になって、あらゆる悪が邪淫を犯した一
人の女のひ弱な肩に乗せられた。女は不義の愛に支えられながら、四面楚歌の状況にあって貴妃とし
て堂々と振舞い、時には毅然と立ち向った・・・・・
(三)
「あんな所に仏堂がありますわ。・・ほら、梨の木のすぐ側に」
「うん・・・気がつかなかったな」
貴妃が指差した所には、古びてはいたが鄙びた駅には珍しい立派な堂宇が建っていた。傍らの梨の
木も年輪を感じさせた。
外の殺気が漲った騒音は絶え間なく続いていた。時折、嘔吐したくなるような残酷な言葉が聞こえて
きた・・・
貴妃は目を瞑り、耳を塞いでじっとしていた。
側から玄宗が、「だいじょうぶだよ、心配しなくていい・・だいじょうぶだ、心配するな」と、老いた声でう
わ言のように繰り返した。
貴妃は仏堂に向かって手を合わせ拝んでいた。不意にその手が耳を覆った。
「塞いでも塞いでも聞こえてくるの!姉たちの悲鳴が!・・・今でも私を呼んでいるわ!」
貴妃は感情を高ぶらせて泣きながら訴えた。肩が震えていた。
玄宗は貴妃を抱き寄せた。背が高く、肩幅の広いでっぷりした体が貴妃を覆った。
豊かな白髪、白く美しい髭、色白の顔は生まれながらの紛れもない天子だった。若かりし頃はさぞかし匂
い立つようなプリンスであったろう玄宗も七十を半ば越え、体のすべてに老醜が色濃く滲み出ていた。殊
に顔の皺は禄山の反乱から目に見えて増えていった。
部屋には高力士が控えていたが、二人は暫く抱き合っていた。玄宗の口から相変わらずうわ言が繰り返
された、
「だいじょうぶだ、心配しなくていい」
それでも貴妃の震えは暫くしておさまった。
貴妃は玄宗から体を離すと、再び仏堂の方を向いて無言でたたずんだ。立っているのが不思議なくらい、
打ちのめされた後ろ姿だった。
玄宗は気遣わしげな目で貴妃を見やりながら傍らの長椅子に腰掛けた。そうして、貴妃の弧を描いた長
くて円い眉や、抜けるように白い肌が泣き腫らして赤くなった瞼や、小さくてかわいい目、ちんまりとして天
井を向いた鼻先、心持ち反っ歯のおちょぼ口を横から眺めた。それから、手を結んで目をこする幼い仕草
や、さして大きくない胸より僅かに突き出た腹、少し垂れ気味の尻をしたやや太り目の体を眺めた。玄宗
の大きな二重の目はとろけるように目尻が下がり、このうえもなくいとおしい愛に潤みだした。・・しかし、愛
を謳歌し、無邪気に愛欲に溺れた喜びの色はその眼差しから消え失せていた。むしろ悲哀と痛恨に満ちて
いた。玄宗の嘆きは、一族を殺された貴妃の悲しみより、もっと深いものだったかもしれない・・・・・
貴妃は仏堂の方を見たまま、徐に云った、
「姉たちを死なせてしまった以上、もう生きていられない。・・・あなた、私を死なせて下さい。・・・これ以上
生きていたくない」
本心はわからぬが儚い栄華を貪って、近衛兵に虫けらみたいに殺された楊一族であっても、貴妃にとっ
ては自分の命と同じくらい大切な愛すべき親族だった。昨夜まで生きて元気に話をしていた国忠や姉たち
が今は痛ましい骸になって晒されている現実に、貴妃の愛は耐えられなかった。
玄宗は「ううっ」と呻きながら、ヨロヨロと椅子から立ち上がった。
「お前のせいではない。自分を責めるな。――な、貴妃!」
「・・・・・」
「お前を守るよ・・・必ず守ってみせる!・・・私のものだ・・・貴妃!」
玄宗は貴妃の丸みを帯びた背中に哀願するように訴えた。
「あなた・・・」
生きる気力も失せ死に定まりかけた貴妃だったが、生に引き戻されるかのように振り返った。
その時、行宮の外のそれまでバラバラだった兵士の罵声が一つになって聞こえてきた。
――淫婦を引き渡せ!
――われらが処刑する!
兵士たちの残酷なシュプレヒコール。それは執拗に繰り返された・・・
貴妃は瞑った目をかっと見開いた、
「わたしが淫婦?わたしを処刑?・・・姉たちを惨殺しておきながら!」
屈辱が貴妃の頭を真っ白にした。怒りで息が喘いだ。肩を上下に波打たせながら、
「私が何をしたっていうの?・・・教えて、あなた!・・あなたなら明天子だからわかるでしょう!」
貴妃は顔を紅潮させ、玄宗に詰め寄った。
高力士が二人の様子に気をつかって、そっと退出した。
「だいじょうぶだ、心配するな」
玄宗は苦渋の顔をさらにひどくして、愚にもつかぬ例のうわ言を繰り返すだけだった。
貴妃はいのちの底に澱となって沈んでいる恨みが一挙に噴き出すのを感じた。
「私を淫らな愛人の境涯に追い込んだのは・・・あなたよ!・・・卑劣なやり方で!」
「貴妃!・・・」
貴妃、楊環は夫の寿王から無理やり引き離され、太真という女道士に仕立て上げられて玄宗の愛人
になった。天子が息子の妃に横恋慕した体裁を取り繕う為に、寿王の妃として矜持を持って生きてきた
楊環を、さも落ち度があったか自分から進んで宮中入りしたかに見せかけて世間を欺いた。このことが
楊環の人格を踏みにじり、この女のプライドを無残に打ち砕いた。天子の命といえども見て見ぬふりを
した夫の寿王にも内心深い恨みを抱いていた。天子であるが故に許される不条理に、それに立ち向っ
てくれなかった夫に、虐げられた女の怒りと悲しみが淵のような怨念となっていのちに刻まれた。
楊環は宮中に入ってからというもの、女道士という欺瞞の立場や貞操を夫の父親に奪われたショック
で極度の情緒不安定に陥っていた。寝所に切れ物を忍ばすこともままあった。潔癖すぎる楊環は数多
いる妾のひとりになれる女では到底なかった。肉欲のセックスなどは、この女にとって屈辱以外のなに
ものでもなかったのだ。楊環が己の純潔を守るためには、もはや玄宗との愛を命がけにするしかなかっ
た。
玄宗は己の身勝手な愛欲の為に一人の女を深く傷つけたことに強い自責の念を抱くようになった。
楊環が受け入れられる誠実な純愛で償おうとした。それが傍目からは溺愛に映っても、天子の立場を
揺るがすことになっても。
これまで玄宗は愛という真実で貴妃に目隠しをしてきた。繊細な女に成り上がりの愛妾という現実は
過酷過ぎた。が、その目隠しもこの場におよんでなすすべがなかった。現実に直面した貴妃は玄宗の
目隠しも薄汚い小細工に思えてきて、新たな屈辱が怒りとなって噴出した。
「何故、姉たちはあんな無残に殺されなければならないの?あなたの家来の中にも悪いことをしている
人は大勢いるのに。私を愛人にしたときみたいに、なにもかも私たちに罪をなすりつけて責任逃れをす
るつもりでしょう。・・あまりにも不条理だわ!」
「!・・・・・」
「わたしのことも最初から遊びですものね。宮中の女に飽き飽きして退屈していたから、火遊びがしたか
ったのでしょう!」
貴妃は玄宗の白髪を掴んで、力任せに激しく振った。玄宗の顔が苦痛に喘いだ。
「私が下賎の者だから何をしても構わないと思ったのでしょう!」
「違う!本当にお前を愛しているんだ。・・・信じてくれ!」
貴妃は掴んでいる手を離した。玄宗の結ったのがほどけて、ハラハラと抜けた白髪が落ちていった。
その数の多さに貴妃は思わず息を呑んだが、いのちの底から突き上げてくる恨みのエネルギーを殺ぐこ
とはできなかった。
「愛?あなたにそんな美しいものがあるはずがない・・・肉欲だけのくせして。信じた私が幼すぎた・・・!」
「信じておくれ・・・お願いだ!」
玄宗の目から懇願の涙が溢れた。
偽りの涙 ――― 怒りで妄念の虜となった貴妃にはそうとしか見えなかった。
「あなたに抱かれたこの身が・・・汚らわしい!」
泣き叫びながら、貴妃は髪飾りを抜いて玄宗にぶつけていった。愛の証のシンボルだったそれらは玄宗
の足下に無残に散らばった。
「あなたが近衛兵に命令したのでしょう。わたしの一族を虐殺するように!」
「なんてことをいうんだ!貴妃、気を静めておくれ!」
「あなたたちの思い通りに死んでやるわ・・だけど淫婦としてじゃない、自分の中の純粋な愛を信じて死ぬ
わ!・・・たとえ、この愛を受け止めてくれる人がいな!―――」
最後の言葉が恨みの涙に呑まれた。周囲の悪意に毒され、完全に愛を見失った女を突き動かすのは激
しい自己破壊の衝動だった。
「貴妃、落ち着い!―――」
引きとめようとする玄宗を振り払って、貴妃は物凄い形相で部屋を駆け出した。と、年寄りとは思えぬ一
瞬の素早さで玄宗が後ろから飛びついた。夜叉の白い手が玄宗の顔や手を狂ったように打った。「お前は
私のものだ、死なせないよ!」玄宗は貴妃の怒りを全身で受け止めながら、何度も呟いた。・・渾身の力も、
赤く打たれるままの玄宗にいつしか抜けていった。
火の怒りが去った後のボンヤリした目が玄宗の潤んだ目を見つめた。貴妃はざんばらに乱れた白髪をす
まなそうに撫でながら、見失った愛を取り戻すのだった・・・・・
(四)
「こんなところに痣が・・・」
長椅子に腰掛けて玄宗の髪を結い始めた貴妃の袂がめくれて、指の形に赤くなった痣が出てきた。明
け方、外に飛び出そうとする貴妃を玄宗が止めたときに出来たものだった。その痣がなかったら、確かに
貴妃は近衛兵の餌食となって無惨に散っていた。・・玄宗はその部分をいとおしくさすり出した。
このときもまだ、貴妃を助けられると愚かにも玄宗は信じていた。消えかかった昼行灯みたいな天子の
威光でも、昔自分の手足となって戦ってくれた近衛兵だ、なんとか抑えられるだろうという甘い期待があ
った。長年かわいい女との愛にうつつをぬかし、政務を怠ってきた老天子のキレは若き隆基時代の面影
もなく錆びついていた。
行宮の外は、刻一刻と逼迫していった。
先ほどから司令官の玄礼がしきりと行宮に出入りするようになっていた。玄宗も気づいて、さしもの老天
子も非常に心配になってきた。部屋まで来ないのは高力士が拒み続けているからだろう。いつまで持ち
こたえられるか。・・さほど持たないことは老天子の錆びた頭でも十分理解できた。
それでも玄宗は貴妃の死が免れないものと観念できなかった。逃れられない現実を受け入れられなか
った。・・が、感情とは別に、悲愴な展開が否応なしに玄宗の脳裡を駆け巡った、
・・・このまま貴妃を引き渡さずとも、逆上した兵士たちが此処へなだれ込んでくる。そうなったら貴妃は・・・!
玄宗は貴妃の残酷な場を想像してすぐ打ち消した。頭が変になりそうだった。
・・わしが貴妃の引き渡しを拒んだら、兵士たちはどんな暴挙に出てくるか・・・。きっとおさまりがつかなく
なって、貴妃だけでなく随行の者にも・・・!―――結局、唐王朝はこんな鄙びた駅で滅びてしまうのか・・・
賊軍と華々しい応戦すら出来ずに!・・・・・
愛の傀儡と成り果てた玄宗も、天子の自覚や父親の感情を完全に喪失したわけではなかった。
窓際に立って外を眺める、老天子の厳しい背中。
もはや、玄宗の取るべき道は一つしかなかった。
貴妃は死を、直感した。
「どうなさったの?」
「いいや、なんでもない」
「・・・・・」
それ以上聞かなかったのは夫としての誇りを守ってやりたかったからだ。玄宗と結ばれて以来、貴妃は
命と引き換えの愛を貫いてきた。覚悟はできていた。が、ひとつだけ、この女の気がかりがあった。一族
も死に絶えた以上、貴妃にこの世の未練はない。ただ、玄宗との愛の行く末が案じられた。
目前に迫った死。地獄と化した馬嵬の駅で、貴妃は玄宗と、最後の愛の花火を静かに打ち上げた・・・
「あなた・・・」
「なんだい?」
「いつもの遊びをしましょう」
「うん・・・」
「・・この前の役は?」
「孔子・・・いや違う、孟子だ。お前が孟子の母親だったんだ・・」
「最後は何でおわりました?」
「『断機の教え』だ。学問を中途で止めては何の役にも立たないっていう・・・」
「!・・・・・」
「どうしたんだ?急に黙ってしまって・・」
貴妃の横顔は暗く落ち込んでいた。
「貴妃・・・。――うん?」
玄宗はいつもの、機嫌を取るように覗き込んだ。
「・・あなた、政も・・学問といっしょなの?」
聞きながら、貴妃は自分に苛立った。
「そう・・だな・・・」
喘ぐような、玄宗の声だった。弱々しい自嘲の笑いが老醜を一層際立たせた。
貴妃は思わず顔を背けた。
「わたしの老いが気になるかい?」
愛にやつれた眼差しが縋るように、「ノー」を迫った。
華清宮で初めて玄宗の側近く召されたときも、やはり顔がまともに見られなかったことを思い出しなが
ら貴妃は答えた、
「・・いいえ」
玄宗は少年のような喜びを見せた。
・・かわいい人・・・
老人の純白の魂は、可憐な女の母性愛をやさしく甘美にくすぐった・・・
「ごめんなさい・・・」
「ん?」
「わたしがいなければ、あなたはずっと明天子でいられたのに・・・」
「お前のせいじゃない・・・」
「でも・・あなたは色に溺れた迷天子、わたしは天子を堕落させた淫らな傾城・・・。二人の汚名は永劫消え
ることはないわ」
「貴妃・・・」
「わたしは・・とっても苦しい。あなたをこんな風にするつもりはなかったのに!」
己の運命に身悶えしながら苦しんでいる貴妃を、側で見る玄宗の辛さはいかほどだったか。――― 自
分で蒔いた種とはいえ・・・・・
「苦しまないでおくれ、貴妃・・・」
妻の涙をハンケチで拭ってやりながら、老夫もすすり泣いていた。
「人がなんといおうと、わたしはお前の真実を知っている。この十年余りの間、政にも口出しせず誠実に仕
えてくれた。―――お前だけだよ、わたしの愛を裏切らなかったのは」
「でも、わたしは・・あなたの権威を傷つけてしまったわ」
「現実がお前にとって耐えがたいものだったからだ。・・・お前が妻にしかなれない女だとはわかっていた・・・」
「わかっていたなら・・・どうして!」
「淵みたいなわしの愛を受けとめてくれるのは、お前の純潔な魂しかない・・・」
「邪淫を犯した私が純潔だとおっしゃるの・・・」
「お前の身も心も、純潔そのものだ・・・」
「あなたがそうおっしゃっても・・・破戒の罪障は魂に歴然と刻まれているはず・・・消しようがないわ」
「わしとて同じことだ・・・」
「・・あなた・・・」
「・・かわいい貴妃・・・お前との間にどんな因縁があるのだろう?・・・わしはずっとお前のような女を・・お
前一人を探し求めていた・・・力もないのに父や兄をさしおいて天子になったのも、国をこの手に治めてい
としい女を見つけ出し、自分のものにしたかったからだと思うことさえある・・・」
「なにをおっしゃるの!・・・あなたほどの方が・・・あんなに英邁な天子と謳われ―――」
「貴妃、よくお聞き・・・昔からわしはどうにもならん愛欲を持て余していた。なんとしても満たしたいという
野心があったのは事実なんじゃ」
「そんな事実・・・誰でも欲や野心ぐらい―――」
「人を治め、守り、導く天子でありながら己の煩悩に血迷った老いぼれが・・・このわしだ」
「もう止めて!・・それ以上聞きたくない!」
「許してくれ。・・・わしが・・みんな悪いのだ!」
玄宗は己の罪に押しつぶされるように白髪頭を両腕に抱え込んで小さく丸まった。いつもの堂々とし
た天子の威風は見るかげもなかった。
貴妃の胸はつまった。並の女なら情けない、女々しい爺と興醒めもし愛想も尽きるところだが、純情
なんとやらの貴妃には、愛に身を窶した玄宗が無性にアワレに思えてくるのだった。
「・・二人が不義ではなく・・・夫婦の宿縁で生まれてくればこんなことには・・・・・」
「お前に妻らしいことをさせてやれなくて本当にすまない・・・りっぱな妻にしてやりたかったのに・・・」
「仏教では人の生命は永遠だといいます。・・・今生は叶わなくても・・来世は必ず夫婦になりたい・・・」
「・・なれると信じよう。・・・だがなれんでも・・わしはお前が欲しい。・・・邪淫の報いであらゆるものか
ら背かれたとしても・・地獄の業火に生きながら焼かれてもな・・・。――かわいい娘よ、お前は永遠
にわしのものだ!」
「・・すべてを焼き尽くしてしまうほどの強烈な愛、底のない大海のような尽きぬ情・・・甘美な悦びに、
このいのちはどれほど酔い痴れたことか・・・。―――わたしは・・・あなたを求めて永久に彷徨って行
く気がします・・・・・」
「・・この世にもし仏がおわすなら、二人の魂が一体となって命終し、一体となって生まれ変われる法
はないものか・・・」
「・・二人で見つけましょう・・・いつの時か。――ね、あなた!・・・」
「貴妃!・・・」
どうにもならぬ愛の情念がやるせなくめらめらと陽炎となって立ち上っていくのを、二人は感じた。
貴妃の子供っぽい小さな目が玄宗の包み込むような大きな目に見入られ、その目が接近して来て
貴妃の視界からはみ出た。玄宗の大きな鼻先と貴妃の小さなそれがわずかに触れ、フサフサした白
い髭の毛先が貴妃のアゴあたりを撫でた。玄宗の吐く息が貴妃の吸う息となり、妻の吐く息が夫の
吸う息となった。二人は熱く目を閉じた。求め合う魂は儚くも一つにならんと、互いの生命を切なく貪
り合うのだった・・・・・
(五)
長い接吻の後、玄宗は尚も名残が尽きぬのか、貴妃の唇を指でいとおしげに撫でていた。ふとその
動きが止まり、耳を澄ました。兵士たちの騒音はなかった。
そのとき、司令官の陳玄礼が高力士と揉み合うようにして部屋に入ってきた。その後を皇族や随行
の者たちがぞろぞろと続いた。
玄礼は高力士の制止を振り切って玄宗たちの前に立つと、貴妃には見向きもせず、皇帝に敬礼して
云った、
「私もよく抑えてきたんですが、これ以上は不可能ですな。帝、貴妃さまの引き渡しを決断して下さい。
でないと興奮しきった兵士が何をしでかすか分からないんです。奴らが暴れ出したら、私でも手がつけ
られないのはご存じでしょう?」
玄礼が貴妃さまと言ったとき、顔が醜くこわばったのを貴妃は見逃さなかった。このとき自身が成敗
される女として扱われている屈辱をまともに思い知った。――― 貴妃は息を止めて玄宗の答えを待っ
た。
「・・貴妃に罪はない。これは奥にいて何も知らんのじゃ。――引き渡しはならん!」
貴妃の愛に一抹の影を落としていた不安は、真夏の青空に浮かぶ雲のようにぱーっと消滅した。どこ
までもお前を護り抜くといった玄宗の言葉に偽りはなかった。いざとなっても真実の愛を選択してくれた
のだ。・・アワレなあなたを疑ってすみません、赦して下さいと、貴妃は心から懺悔するのだった。
二人を玄礼や皇族、随行者たちが激しく攻め立てた。中には露骨に牙を剥き出す者もいた・・・
「帝、この場に及んでまだ戯言を!・・六軍が納得するとお思いか!あなたは皇族の方々や我々臣下、
更には長安で反乱軍と戦っている多くの兵士や、戦乱の中で耐え忍んでいる国民の事を少しは考えて
おられるのですか?」
「・・・ここまで国が乱れたのは、全てわしの慢心から起きたことだ。貴妃でも国忠のせいでもない・・」
「帝を狂わせたのは貴妃さまと楊一族だと近衛軍は信じておるのです。我々だってそう思っていますよ」
「そうではないのだ・・・わしの愛欲が―――」
「たとえそうでなくても、近衛軍の不満を解消してやらなくてはいけないんです。貴妃さまを差し出して下
さい!」
「・・・断じて、出来ん!」
「帝は側室一人の為に随行者全員を見殺しにするお積りだ!」
「帝、そんな淫婦、血に飢えた兵士どもにくれてしまえばいいんですよ!身内がみんなあの世で待って
んだから!」
玄宗の眉間に逆鱗の皺が立っても、真一文字に結ばれた口に微塵の動揺もなかった。
その時、皇族の女が泣きながら訴えた、
「お父さま、お考えを改めて!・・貴妃を大切にお思いなのは分かります。ですが、ご自分の家族は愛お
しくはないのですか?・・子供や孫がこんな所で死んでも平気なの?・・それとも肉親の情は愛妾に溺
れてとっくにお忘れになったと?――お願いです!お父さま、私たちを見殺しにしないで!」
さすがにこれには袖で顔を覆い、忍び泣きを漏らしていた玄宗だったが、
「貴妃に罪はない。・・・責任を取らねばならんのはわしなのだ」と、きっぱり云いきった。・・・更に玄宗は
続けた、
「わしは今この場で退位する。代わって皇太子を即位させたい。これからは李亨が新皇帝だ。――李
亨、後を頼む。皆の者もしっかり支えてやってくれ。・・・わしは禄山の責任を取って・・貴妃と共に自害
する。――貴妃、許してくれ!」
「天子さまと死ねるなら、貴妃は本望!・・・喜んでおともします・・・」
「すまん、貴妃・・・」
玄宗は貴妃を側に抱き寄せた。右手には隆基時代の剣が握られている。前には高力士が立ちはだ
かり、二人の死の道行きをガードした。
「お待ちください!」
突然、甲高い女の声が叫んだ。
「天子さま、あなたさまお二方はそのまま至上の愛を貫かれて果てればよろしゅうございますが、残され
た者はどうなるのです?天子さまの命令にも従わない近衛兵がどうして李亨さまの言われることを聞き
ましょう?」
多くの者が女の意見に賛同した。
玄宗も己の甘さに今の今まで気が付かなかった迂闊さに、遅まきながら臍を噛んだ。
玄礼がそれを読んで、すぐさま追い討ちをかけてきた、
「きっと兵士たちは帝が貴妃さまを恋しくて一緒に死んだと取りますよ。つまり、心中ですな・・・。結局、
天子は国より愛しい女を取った、自分たちは天子に裏切られたと―――」
「黙れ!玄礼・・・お前は天子を愚弄するつもりか!」
玄宗の苦しまぎれの眼差しが、唯一の味方の高力士に縋るように向けられた、
「力士、お前の考えを聞かせてくれ」
宦官は困り果て、顔も上げられず俯いたまま答えた、
「司令官のおっしゃる通りだと思います。・・帝が責任を取って自害されても、潔いお心は決して理解さ
れないでしょう。・・・帝のお考えは少々甘いかと・・・」
ここまで話すと、宦官は玄宗の側まで来て小声で、
「近衛兵と帝の絆は昔から格別深いものがあります。隆基さまが皇帝になれたのも自分たちのお陰だ
と自惚れている者も大勢いるのです。寵臣を自負する彼らは帝の寵愛めでたい貴妃さまが現れて陰で
憎悪を燃やしていたのです。・・今また自分たちの出番が来て、その恨みを晴らしたいのではないでし
ょうか・・・」
「だが、わしも貴妃も共に真実の愛で結ばれて―――」
「彼らには力関係しか見えないのです。お二人のアワレな愛など理解できないのですよ。近衛兵だけ
ではありません。ほとんどの者がそうなのです。帝、弱肉強食ですよ。今、帝の立場が弱くなって、強
者の六軍が弱者の貴妃さまを―――」
「もう、よい・・・」
愛の人――玄宗に、その先は決して聞けない現実だった・・・
「帝!今こそ政道を正して下さい!」
「お父さま!お辛いでしょうけど、勇気を出して!」
「天子さま、どうか正義のご裁断を!」
玄宗の顔に刻まれた皺という皺を苦の涙が滝となって流れ落ちていった。片手はしっかり貴妃を抱き、
もう片手は剣を握ったままだ。その握力は強まりこそすれ弛むことはなかった。後は時間の問題だった・・・
泣かないで、あなた・・・・・
貴妃はいとしい夫の涙にいたたまれず、ふっと窓辺のあの景色を思い浮かべた。梨の木と仏堂。梨の
木は梨園で戯れた二人の楽しい愛の日々を、仏堂はまもなく訪れるかもしれない、いやきっと訪れるだ
ろう恨めしい別れを象徴した。
離れたくない!・・わたしはどこまでも・・あなたの妻でいたい!・・・・・
真実と現実と、二つのはざまで貴妃が葛藤したのは、ほんの一瞬だった。
「天子さま、私一人に死を賜わりとうございます」
その言葉は静かで気高く、毅然と聞こえた。・・・が、声の震えに別れの恨みは隠しようがなかった。
「何を言うんだ!・・お前はわしといっしょに―――」
「いいえ・・・」
「貴妃!」
「あなた・・最後に妻らしいことをさせてください。――― 貴妃はたった一人の妻のはず・・・」
「貴妃 !!」
己の体を引き裂くような、玄宗の悲痛なしわがれ声が部屋中に響いた。・・・が、既にどうすることもでき
ない。貴妃の申し出を強引に撤回させるほどの力を、悲しいかな、今の玄宗は持ち合わせていなかった。
・・わしのかわいい娘に死罪を与えてこの場を凌ぐ?・・出来ん!・・それが国民を苦しめたわしの報いだ
としてもだ!
もっとも貴妃を犠牲にしたところで、地に落ちた唐王朝の威信が回復できるどうか危いことぐらい、いくら
錆び付いた玄宗のキレでも判断できた。
止まらぬ涙を袖で押さえながら、律儀な妻は慈母のような思いを遺した、
「あなた、政を最後まで立派にやり遂げて下さい。・・・貴妃は先に行って・・あなたをお待ちしております・・・」
「!・・・・・」
貴妃の清らかな覚悟は、未だに状況を受け入れられない玄宗を暗澹とした混乱に陥らすだけだった。――
が、早、周りは当然の如く貴妃の死罪を受け入れていった。玄礼が貴妃を連行しようと寄ってきた。その愛
しい肩を非情な手がまさに掴もうとした時、玄宗は貴妃の惨すぎる現実を知った。
もはや絶対絶命、貴妃の処刑は玄宗の中でも揺るがぬものとして確定せざるを得なかった。――だが、
純粋無垢な妻の魂が畜生どもに踏みにじられ、汚されることだけは絶対耐えられなかった。それだけはな
んとしても避けねばならなかった。
・・・貴妃よ、お前の命は守ってやれなかったが・・・せめて、尊厳だけは、たとえ唐王朝を潰しても・・絶対に
護り抜く!・・・
「貴妃に触れるな!」
天子の威厳に満ちた怒りが玄礼をその場に跪かせるとともに、貴妃に注がれていた好奇な視線を蹴散ら
した。
「一同の者、よく聞け!・・・貴妃は死罪ではない。自害するのだ。・・不甲斐ない天子と、お前たちと、唐王
朝を救う為に!――― 許せ、貴妃!」
「!・・・・・」
貴妃は袖で埋まった顔を小さく横に振った。肩が震えていた。
・・わしはもう、お前を抱いて涙を止めてやることもできない・・・貴妃!!
「玄礼!」
「はい」
「貴妃はおまえたちの手にはかけん。・・・力士に任す。自害の場所は・・あの仏堂だ」
「それでは兵士たちが納得しません!」
――そうだ!その通りだ!
近衛兵の機嫌を案じる者が数名玄礼に同調した。中には高慢な女の酷い最期が見れぬと残忍なブーイ
ングを発する鬼畜もいた。
「聞け!・・わしの命に逆らう者は誰も容赦せん!今、この場で・・斬る!」
隆基時代を彷彿とするような玄宗の気迫に気圧された格好で、玄礼たちも引き下がるしかなかった。
別れのときが来た。
貴妃は皆が見守る中、天子に許しを乞うて即興の辞世を詠んだ。高音の澄んだ声はすべてを吹っ切るか
のように従容と響いた・・・
馬嵬死
林甫欺君王信用
禄山背君王殊寵
傾城豈忘恩愛乎
為君王将果仏堂
終わると、貴妃は涙にむせぶ天子に最期の挨拶を述べ、慇懃にお辞儀をした。そうして小声で「さようなら」
と云うと、玄宗の側を離れて行った。それっきり、玄宗を見ようとはしなかった。
貴妃が部屋の中央まで来ると、高力士が恭しく寄って来て、深く一礼した。力士が前に立って二人が歩き
出したとき、後ろから玄宗が、
「力士、抜かりはないな?」
「はい」
「近衛兵も手出しはすまいな?」
「だいじょうぶだと思います」
「うむ。・・もしものときは・・承知しておるな?」
「はい」
「貴妃を苦しませぬよう―――」
「わかっております・・・」
玄宗は無言で頷いた。
貴妃は二人の会話中、毅然と前を向いていた。その姿勢は死ぬときまで変わることはなかった。貴妃は玄
宗の妻として夫を守り、立派にこの世を去っていった。・・さながら皇后のように。貴妃の魂もさぞや浮かばれ
たと思えたが・・・。―――覚悟はあっても突然命を奪われる苦しみは、貴妃に刹那の怒りを起こした。命終の
瞬間、貴妃の魂は玄宗の魂を激しく求めたが、報われることはなかった。貴妃の魂は独り、無限に続く恨みの
闇にさ迷っていくしかなかった・・・
玄宗は窓に張り付くようにして貴妃を見守った。途中、目つきの悪い女が貴妃に唾を吐きかけようとしたり、
ニヤニヤした兵士が貴妃に付きまとったりしたときは剣を握りしめて気を揉んだが、心有る兵士に救われて
事なきを得た。―――ちょうど今、貴妃を見送った。
程なくして、玄宗の目はいつものかわいい姿を探して、キョロキョロ部屋を見回した。にっこり微笑んで現れ
るはずの貴妃はどこにもいない。玄宗はいつもの柔らかい手に触れたくて、両手を差し出した。手は空を掴ん
だだけで寂しく両脇に落ちた。玄宗はフラフラと長椅子の所へ行くと、そこに崩れ込んだ。側にいつもの温もり
はなく、ぽっかりと空いた貴妃の空間だけがあった。瞬間、玄宗の魂は体から抜け出して、愛する貴妃の魂
を追いかけて無間地獄の闇をさすらう旅人となった。―――二人が最後に愛の花火を打ち上げた場所には
もう、玄宗も貴妃もいない。空蝉となった老人が独り、虚ろな目をして座っていた。
(第一部 終わり)