目 次
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(一)
死にゆく者がもつ、厳かな静寂に包まれた人々の群れ・・・。 美しいまでの尊厳がそこにはあった。
先頭を歩むのは若き城主秀頼。殉ずる淀殿の目の前をわが子の凛々しい背中が揺れた。親子の血はそ
こはかとなく後ろ姿に滲み出て、在りし日の懐かしい秀吉が重なった。
!・・・・・
不意に母の静寂が破れた。
淀殿は何度か瞬きをしたが無駄だった。腹の底から突き上げてくる思いとともに、一筋の断腸の雫がこぼ
れ落ちていった。
炎と煙塵に覆われた城の中は混乱を極め、外には獲物を待ち構えて舌なめずりする獣兵が真砂の数
ほど取り巻いているのを、知ってか知らずかわれ先に逃げる者の悲鳴や怒声が怒涛の如く渦巻いて、
間無しに始まる地獄狂騒曲のプロローグといった阿鼻叫喚音を奏していた。
「母上、お手を」
秀頼が振り返った。いつもと変わらぬいたわりを見せるわが子のたくましい手。淀殿は宝珠に触れる
思いでつかまった。
主従は今、自刃の場所を求めて天守閣へ向かっていた。母子には其処が、うたかたとはいえ戦国の
日の本を統一し、乱世に太平の礎を成し遂げた栄えある豊臣家終焉の場にふさわしいように思えた。
淀殿は遅かれ早かれこの日が来ることを覚悟していた。夫、秀吉の辞世の歌を聞いたときから・・・・・
つゆとをち つゆときへにし わがみかな 難波のことも ゆめの又ゆめ
「茶々、お聞き。――― わしが死んでのち豊臣を滅ぼそうとする者が必ず出て来る。そやつの力が強
ければ、大方の武将は裏切って靡いていくだろう。・・・お前たちが力のない女子供であるのをいいこと
に、秀頼を護る大義のもとこの豊臣家を牛耳ろうとする獅子身中の虫も出て来るに違いない。そやつら
を牽制するため、わしは諸大名から誓書を取り、五大老、五奉行の合議制を取ったが・・・」
「はい・・・」
「・・・なにしろ徳川の力が強大だ。―――お前も知ってのとおり、家康は狡猾な男。あやつの陰険な悪
知恵に勝てるのはわしぐらいなものだからな・・・」
秀吉はささくれた唇から少し歯を見せ、弱々しい声を立てた。
「家康殿は本心と嘘を交互にチラチラ見せて相手を煙に巻いてしまうところがおありです。うわべは人情
家のような惚けぶりで実は卑劣なことも平気で出来る方・・・。人心の隙に付け込んで、相手を手玉に取
って操るのが非常に得意な方でいらっしゃいます。―――それに・・・・・」
「それに?」
「家康殿は好色な方とお見受けします。・・茶々を見る目が―――」
「なに!」
秀吉の薄目がかっと見開いた。
「茶々が側室の・・妾の立場だからそんな辱めを受けるのです。その証拠に家康殿だけではなくて―――」
「他にもいるのか、誰じゃ?!」
「・・・・・」
淀殿は、石田三成、小早川秀秋と胸の中で呟いた。三成は秀吉の寵臣、秀秋は正室おねの甥だった。
滅相なことは、たとえ夫でも言えなかった。
「茶々・・・?」
「茶々に色目を使うのは一人や二人の殿だけではございませぬ。ですが、そんな女に思われるのも偏
に側室の弱き身故・・・悔しい限りです」
「わ、わしのせいだと・・・なるほど、気が付かぬとはいえお前に辛い思いをさせてしもうた・・・」
「いいえ。・・・茶々はほんとに果報者。太閤の寵愛を一身に受け、お世継ぎを二人までも生んで今をと
きめいたのですから。・・その代り、周りの妬みや憎しみまでも一身に受け、妾のくせに気位が高いと侮
蔑の横目、果てはあらぬ中傷に悩まされる日々もありました。・・・でも、なによりも辛いのは唯一の頼み
である殿が逝っておしまいになること・・・茶々の苦しみは増すばかりです!」
「・・・わしが死んだら、お前の苦悩は少しは和らぐと思ったのに・・・」
「なにをおっしゃるの!・・茶々はどれほど秀吉さまを・・・・・」
「・・だが、わしへの恨みは消えまい・・・」
「・・・有り難い父母を滅ぼされた恨み・・血の分けた兄を惨く殺された恨み・・かりそめにも養父のように
頼っていた男から妾に堕とされた恨み・・、普段は殿の愛に鎮められていても、時折何かの拍子に気も
狂わんばかりの怒りとなって茶々を苛みます。一時、いとしい思いはすっかり消え失せ、ただ秀吉を八
つ裂きにしてやりたいと願う地獄の心に・・・茶々にはどうにもなりませぬ・・・」
「仕方のないことじゃ・・・。お前をそこまで追い詰めたのはわしだからな・・・許せ!」
秀吉が苦しそうにうめいた。加減が悪くなったのかと淀殿が心配そうに覗き込むと、病人はなんでもな
いというようにやせこけた手を力なく振った。落ち窪んだ目元がうっすら濡れていた。
「・・・殿を恨む気持ちは消えずとも、茶々と秀吉さまは実の夫婦だと固く信じております。初めてあなたと
結ばれたとき、『茶々、約束するよ。お前以外の女とは決して男の悦びを味わうまい。お前の現身は側室
でも、わしの実の妻としての誇りを持ってくれ』と言って下さいました」
「ずっと守って来たよ、お前との約束。―――信じてくれ」
「はい・・・。強い正室さまをたんと満足させ、見目麗しい女人方を慈しみながら、茶々との誓いを貫かれた
んですもの。さぞや難儀されたことでしょう・・・!」
淀殿の語調が鋭く煮えたぎった。
「う、うむ・・・。しかし、お前を守る悦びを思えば楽な苦じゃ。―――な、茶々」
重い病に臥してなお、若妻の恨みの刃、悋気の熱湯をすっとかわす秀吉の愛。尋常人ではなかった。
そもそもお茶々という姫は、親を殺した仇から一妾に落とされて正気で生きていられる神経は持ち合わ
せていなかった。長政やお市から譲り受けた激しいまでの自尊心は痩せても枯れても妻にしかなれぬ性
分だった。この、戦国に生きるには難多き姫に秀吉は遅咲きのアワレな慕情をつのらせた。「あなたの妾
にされるくらいなら、どうかお手にかけて殺してください。よろこんで父母や兄のところへまいります」と言い
放ったお茶々の前で、秀吉は犬にもなり猿にもなり、猪や赤子にもなって純愛を乞うた。ひたすら愛の傀
儡になりおおした数年間、とうとうお茶々御寮の心も柔らかに解きほぐされ、二十歳の春秀吉の愛を受け
入れた。煮こうが焼こうがお気の召すままの妾、閨でかわした誓いなど茶番も茶番と一笑にも付せただろ
うに、その後もお茶々一路に心変わりはなかった。そんな純情秀吉を知る人は、まずいない・・・・・。
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(二)
「茶々・・・」
「はい」
「生きた豊臣秀吉を守ってくれる忠臣や妻妾は多い。が、死んでしまえばそれもおぼつかん・・・」
「食うか食われるかの戦国の世、恥を忍んで生き抜く気なら今日の敵が明日はわが身の夫に・・・。なれ
ど茶々は妾に落ちぶれてもお市の娘、武家のアワレぐらいは心得ております。秀吉さまを裏切るなどどう
してできましょう。ましていとしいわが子を見捨てるとは、おぞましいかぎりです・・・」
「・・命にかえてわしと秀頼を、豊臣を守ってくれるか?・・・それともこんな頼みをするわしを・・恨むか?」
「・・世間ではなるほど茶々は傲慢、強欲、強情の悪名高き女として通っておりますが、真実は風がそよと
も吹けば揺れる柳の枝のような弱虫、箸が転んでもべそをかくような泣き虫、あなたの前では幾つになっ
ても赤子のような甘ったれ。されど太閤秀吉の実の妻、豊臣家お世継ぎ秀頼公の御母としての覚悟と誇り
は一度たりとも忘れたことはございません。―――ただ・・・」
「ただ・・・?」
「茶々は軽くあしらわれる儚き身。本来なら正室さまが持たねばならぬ立派な覚悟のほどを世に示しても、
妾の分際で不相応な振る舞いと返って威張りくさった武将たちの感情を逆なでし、悪口罵詈の矢を浴びる
のは必定かと・・・」
「おお、さもあらん。下賎の身から出世したのじゃ、それぐらいのことはわからんでか・・・。わしが死ねばお
前への風当たりもいっそう辛うなろう。―――じゃがな、お前だけは豊臣秀吉を守ってほしい・・・」
「・・茶々の気性を知り抜いた秀吉さまの真意、ようわかりまする・・。たとえ孤立無援になってもあなたを辱
める者には屈しません。秀頼とて同じこと・・・」
「・・お前はわしに恥をかかせて生きておれる女じゃない。・・秀頼も生まれついての孝行者、性質も純真じ
ゃ。家康が事を起こせば、お前たちは捨て身でかかっていくだろう。―――それが・・不憫でならん!」
秀吉は金繍の薄いふとんを顔まで引き上げ、すっぽりと覆った。中から乱れた息遣いに混じって嗚咽が
漏れた。
「・・お泣きにならないで!・・・お体にさわりまする・・・茶々まで悲しうなりまするに!」
病人を安らかにせねばとオロオロ気遣う淀殿だったが、結局自らも堪えきれずに泣き崩れてしまった。
ひとしきり泣き腫らした二人だったが・・・
「すまん・・・」
「あなたこそ・・病でお辛いのに・・・」
「・・むなしい天下人じゃ、わしは・・・。かわいい妻子を護ることもままならん。わしが三十年がむしゃらに
戦ってきたのは、一体何の為だったのか―――」
「殿・・・茶々も秀頼を連れて後を追います。どうせ生きていても四面楚歌、ならばいっそ―――」
「早まるでない!」
「でも・・・」
「拾はまだ六つじゃ・・・母子してできるだけ生き延びよ。・・・その間に情勢が好転するやもしれん。秀頼
も大きくなるし・・・。―――わしは息のある限り、力を尽くす。・・・なりふりを捨ててもな」
「あなた!・・・」
「・・・泣くでない。男ならあたりまえのことだ・・」
この時の秀吉の約束は、あの有名な『返々、秀よりの事たのみ申候、―』の遺言となって果たされた。
天下人の恥もプライドもかなぐり捨てた一老爺の秀吉がわが子の行く末を安ずる、くどく切なく哀れなか
きつけが、豪勢にばら撒いた大枚の金子やお宝とともにどれだけの効力を諸大名に放ったか、のちに淀
殿は思い知らされるのである。
秀吉はきっと、与えた恩義の有効期限、打った人情の絆しが利用できる耐用年数まで計算していたの
ではないだろうか・・・。
「わしはな、茶々、お前たちの殊勝な心が返ってお前たちを守る気がするのじゃ・・」
「・・・・・?」
「家康はあのように陰湿な男だ。見かけは忠誠を誓っておっても、成り上り者のわしに屈服したことでひど
く怨嫉しておる。豊臣家を根絶やしせねばどす黒い復讐の執念は満足しないだろうし、わしの血を恐れて
おるから安心は出来ないだろう。―――わしには・・秀吉亡き後のあやつの天下取りの構想が目に浮かぶ
ようじゃ!・・・」
「殿!・・・・・」
生来の負けん気が如実に出た口をへの字に曲げて小刻みに震わせる秀吉。如何にも口惜しい様子の死
病の人を淀殿は慰める言葉もない。ただ、母の如き眼差しで見つめるしかなかった・・・・・
秀吉という男は従来の兵法の概念を打ち破り、独創的な戦法で天下を統一した稀有な武将だった。太平
の世へ移行するための次代を睨んだ画期的な政策を打ち出し、封建社会の土台を築いた非凡な政治家で
もあった。奸計にはスグレモノでも所詮凡人の域を出ない家康の腹など秀吉は容易に読めた。
根が利発な淀殿、戦や政には口出しをせぬ分別をわきまえていたが、誰よりも秀吉の偉大さは心にしみて
いた。何人も抗えぬ死によって、みすみす鼎の軽重を問う家康に後事を託さねばならぬ秀吉の無念を、実
直な淀殿は痛いほど理解できた。
実際、主君太閤亡き後家康があらゆる策を弄して逆臣の汚名を世間に隠蔽しながら、残された豊臣を守る
女子供を相手に真綿で首を締めるようにじわじわと主家を滅ぼし、徳川の天下を正当化していったのは周知
の事実だ。
秀吉が腐心の末築き遺した偉業はすべて、家康が己が力にものをいわせて抵抗できない女子供から毟り
取り、徳川幕府に名を変え形を変えて二百五十余年受け継がれた。江戸幕府がもたらした太平の世は、とり
もなおさず秀吉が構築したものといって過言でない気がする・・・。
夏の陣の後秀吉の神格を剥奪し、徹底して豊臣の功績の痕跡を抹殺して家康が死後神君に納まったが、
凡庸な家康を祖と仰ぐ徳川はその後も保身に汲々とするだけで、斬新な政策転換もなく、秀吉が乱世を制圧
する必要から打ち立てた封建制度を愚直に守株した結果、日本の発展は大幅に遅れ、国民は幕府の不条理
な重圧に長く喘いだ。もし、偉人秀吉の遺言どおり秀頼を立てていたら、時代は早くに封建社会を脱皮して、新
たな局面を迎えたかもしれない・・・。
「・・・だが、家康は利口者ゆえ下手な手出しはすまい、他の大名の目があるからな。―――あの男に事を起
こす口実を与えないことが大切なのじゃ」
「口実・・・」
「それにはな、茶々、こちらが君臣の礼を守って正々堂々と振舞うしかない、豊臣家の誇りを持ってな。分か
るな、茶々、家康にはそこいらの小細工は通用せん・・・」
「はい・・・」
「じゃが、気がかりなことが二つある。おねと三成だ。この二人がわしを裏切れば・・・家康の思う壷になる・・」
「!・・・・・」
淀殿は唇を噛みしめた。裏切りということばが生理的にむかついた。それにもまして、あれほど殿から恩を
受けている二人が何故?!という思いが不合理な怒りの渦となって頭の中をぐるぐる回った・・・
「・・もし、おねが豊臣を裏切れば、わしが手塩にかけて育てた多くの武将も一斉に反旗を翻すじゃろう・・・その
中でもっとも危険な奴が、小早川秀秋だ。・・茶々、秀秋には特に気をつけねばならん」
「秀秋殿・・・?!」
淀殿は脳裡に焼き付いている、小早川秀秋の女々しい顔や、その顔とチグハグな卑猥な目、ニヤニヤと弛ん
だ口元を思い出した。秀秋は以前から秀吉の目を盗んで、何度もそんな表情を淀殿に見せたことがあった。・・
家康や三成の色目があえて正常というならば、小早川秀秋のそれは明らかに異常な、性的暴力を露骨に剥き
出した変質者的色目とでもいおうか。淀殿は家康や三成の色目も屈辱的だったが、秀秋のそれは見られるだ
けでも心や体が汚されるようで、もっと不快だった。
「・・・秀秋は器量が人一倍劣る、取るに足らぬ奴・・いや、もっと質が悪い。奴は能無しのくせして欲だけは恐ろ
しい亡者だ・・・己の邪な欲望を満たすためなら、なんだって出来る武将のクズじゃ。朝鮮に出征させて、それが
はっきりと分かった。・・・秀秋が朝鮮から送ってきた戦果の耳は・・女、子供の耳じゃった」
「!・・・・・」
淀殿の険しい色に気づいて、秀吉がなだめるように諭した、
「怒るでない・・。お前のような純真者が理解できる者たちではないのだ、おねも三成も・・・それに極悪非道
の秀秋もな・・・」
「・・・・・」
淀殿はじっとうつむいて、唇を噛みしめていた。
(三)
「・・なあ、茶々・・・わしはこれまで、どんな時もおねを立て正室には頭の上がらん浮気な夫で甘んじてきた・・・」
「・・・はい」
「それもこれも・・・唐の玄宗みたいにはなりたくなかったからじゃ・・・」
「わかっております・・。それゆえ茶々も殿の言いつけを守って耐えてまいりました・・・豊臣家の御為、
わが子を護る為だと自分に言い聞かせて・・・!―――殿、正室さまに武家の心構えをよおく含ませて
下さいまし!」
「・・・無駄なこと。・・あの人はお前のように忠義とか誇りに命をかける清らかなおなごではない。花の
美しさより、だんごの旨さを取る俗物じゃ・・・」
「俗物!・・・」
いったんは絶望に萎れた淀殿だったが、きっと秀吉を睨みつけると・・・
「・・では殿は一方では花に命をかける女を愛してアワレな心を満足させ、片方では名聞名利の美食に
目のない女にたらふく旨いだんごを食べさせて、あなたもともに満腹していたのですね・・・ずるい方!」
淀殿をずっと悩まし続けてきたこと―――秀吉の表裏が余りにもかけ離れて違うことだった。そこから
生ずる混乱が、今また裏の秀吉を信じて生きる淀殿を襲った。
物事にはすべて裏がつきものというが、秀吉の場合もその例に漏れなかった。世間が思い込んでいる
秀吉像は成金趣味がきつい俗物で、若い姫君のお尻に涎を垂らしながらも自らカカア天下を讃歌して止
まない、どこらでもころがっているスケベエ爺というところか。が、果たしてそんな凡暗にどん百姓や乞食と
変わらぬ針行商人の境涯から天下人になるという、不可能を可能にするような大それた事が成し遂げら
れるのか。―――表の秀吉はどこまでも凡庸な男だった・・・。お茶々や秀頼、一部忠臣のみ知る裏の秀
吉こそ、天下人その人に違いない。秀吉の悲劇性は表裏ともに正直ではなかった、いやなれなかったあ
たりにありそうだ・・・。
「茶々・・・わしが欲しいのは・・・お前という花だけだ・・・わかってくれ!」
「俗物の殿には・・・片腹痛い言い分だこと!・・・」
淀殿の混乱が続く間、秀吉は憎むべき狒狒猿になり下がった。
「・・おねとわしとはくされ縁なのじゃ、付きたくもないのに付かねばならん・・・」
心底から発したのだろう、秀吉の泣き言は妙に哀しかった。
秀吉こと木下藤吉郎は百姓の出自で、一村長の倅だった。この男が身分不相応な出世の上昇気流に
乗ったのは、階級にこだわらない実力主義の暴君、信長との出会いがあったからだ。
藤吉郎が下男から足軽小頭までなったとき、出世株との噂がしきりに立ったのか、組頭の養女おねと結
婚した。上役の娘を貰えば必然カカア天下、尻にしかれるのは今も昔も変わらない。婚戚のしがらみも後の
恐妻家となっていく所以だ。
十四歳だったおねが当初から己の出自が上なのを鼻にかけ、年端も行かぬくせに姉さん女房ぶって、ど
う見ても美男と言えない貧相な小男の藤吉郎を、きっと内では小馬鹿にしながらも、夫の尻を小生意気に
叩いたことは二人の後の力関係からしても軽く察しがつく。
おねの小賢しい知恵がただごとではない藤吉郎の未来をかぎつけるや、もはや内助云々どころのかわい
さではすまされぬ。「この愚夫、我の力で出世せり」とばかり似非才媛ぶりを発揮して、己の権勢の確保に
浅ましいまでに出しゃばっていくのである。
愚妻おねは藤吉郎の絶妙な考えもわからず、男の仕事に分別もなく口をはさんだ。叱ろうものなら、親族
や目上の者にあることないこと意地悪く告げ口をして、反対にたしなめられるいまいましさを弱者の夫は味わ
ったに違いない。敏い藤吉郎は二度とおねに良妻教育を施すことはなかった。
何事にも機微に鋭かった藤吉郎、底が見え見えの鼻持ちならぬおねを妻とも女とも思えなくなっていった
ことは想像に難くない。それでもひたすら『かあちゃん第一』の夫に徹したのは、ゆめの又ゆめを夢見ていた
からだろうか・・・。
古文書を見ると、おねは表向きはいかにも気さくで善良な面倒見のいい女といったように振るまっていたよ
うだから、人のいい阿呆は無欲恬淡だとつい騙されるが、なんのなんの夫の出世と自分の権力に貪欲な、ど
うしてどうして計算高い女だったことは後の豊臣背信で火を見るより明らかというものだ。物分りのいい正室
を気取っていても、本心は本妻と妾のケジメに味噌と糞ほどの区別をつけねば収まらぬ嫉妬もちらほら表れ
た。
むかつく女房に死ぬほど辛抱しながら、非凡の器を全回転して秀吉は天下人への道を駆け上っていった。
凡人おねもそんな夫をだしにしてぬけぬけと糟糠の妻におさまった。おねがしたことといえば、夫の仕事をひ
っかきまわしたことと、恐れ多くて誰も言えない秀吉の悪口を己の格付けにケラケラと笑いながら吐いて、子
飼いの武将を手なずけたことぐらいではなかったか・・・。
秀吉が天下人になると、忍ぶ草の寵愛を受けたおねや子飼いの武将たちは「主君のお陰」を忘れて、
浅はかな「自分たちのお陰」意識を抱くようになった。この増上慢がどこから来るかといえば、秀吉の非
凡さ偉大さが真に理解できなかったところに胚胎している。秀吉の死後おねたちが家康に転んだのは、
その凡庸たるが故だろう。
「わしは祝言を上げてすぐおねの本性を知った。いざとなったら亭主でも裏切る女だ・・・底意地も悪い。
わしは実のないおねなど到底心を許して愛せなかった。だから、わしは・・・」
己の命を注ぎ込めなかった、つまり子供を産ませなかったと秀吉は言おうとした。
長く続いた下積み時代、弱者の憂き目をいやというほど見てきた秀吉。強きにへつらい弱きをいじめる
老若男女の醜顔は、ごくまれに出合った仏顔とともに生涯忘れることはなかった。いつしか揉まれに揉ま
れて人心収攬、懐柔の天才的業師となった秀吉は、己の自我を守りながら弱肉強食の乱世を自由自在
に生き抜く術を知った。
秀吉はおねに対して顔も心もつきたての餅のように柔らかく己を曲げて接したが、勝気でナイーブな本
質だけは裏にそっと秘めて出すことはなかった。愛のないおねに己をさらけ出せば惨めに傷つく。秀吉が
愛情にことのほか節操があってかつナーバスな男だったことは、愛する女にしか子供を授けなかった事
実で明白だ。
「わしは家康のように譜代の家臣を多く抱えた力のある武将の嫡子なんぞでない。人を動かす知恵はあ
っても元からの力は皆無なんじゃ・・好き嫌いなど言っておられん。・・・縁ある者はすべて動員せねばな
らなかった。―――わしの話を信じてくれるな・・・お茶々・・」
「・・こんな大切なときにまたいつもの恨みが出てしまいました・・・赦して下さい、殿。―――あなたに茶々
の、この小指ほどの力もなかったことはよう分かりまする・・・たいそうお辛かったことも。・・茶々もそうでし
たから・・・」
狒狒猿はいつのまにやら慣れ親しんだ愛しい夫に戻っていた。その人は今、死相も痛々しく横たわって
いる。と、尚更、なくてはならぬ空気のような愛に包まれたこの十年余りの幸福が、その愛に去られる辛さ
――それは、すべてが虚しくなるほどの淋しさであったり、何が潜んでいるかわからない真っ黒な穴に秀
頼と二人取り残されるような、そら心細さだった――とともに淀殿の胸にひっしと迫った。
「お前もわしと同じ無力の身じゃ・・・助ける者とてない。―――そのお前を守る為に、わしは・・・!」
何をか思い出した秀吉は全身を震わせながら、矢庭に「この鬼めが!」と己に吐きつけた。
唾のしぶきが悲愴な顔に飛び散った。驚いて淀殿はそれを手ぬぐいで拭きとってやり、興奮をなだめよう
と、暫く額を撫でていたが、
「殿・・・?」
「い、いや・・だいじょうぶだ。・・何でもない」
秀吉は少々慌てた様子で平静に戻った。が、淀殿の心はすんなり元には戻れなかった。我が身のこと
で余命幾ばくもない夫が、こんなにも自身を責め苛まねばならぬことによほど拘泥した。思い当たるふしは
三つあった。どれを浮かべても思わず仏の御名を唱えたくなるような、心えぐるまでの哀しい痛みを伴なわ
ずにはいられなかった。
(四)
「・・殿がそれほどまでにご自分を責めていらっしゃることが何か・・・茶々にもおおよその見当は・・・」
「・・・・・」
「・・無謀と噂される朝鮮出兵・・秀次様一族への血も通わぬご処置・・利休殿に理不尽にも詰め腹をお
切らせになったこと・・・そうではございませぬか?」
「・・・・・」
「・・でも、どうして・・茶々を守るためと・・・?」
「・・・・・」
秀吉の痩せこけた顔はピクリとも動く気配はない。目は固く閉ざされたままだ。しかし、次の言葉に秀吉
の沈黙が大きく揺らいだ。
「殿!真実をお聞かせください。・・茶々は今まで何も知らずにあなたに頼って生きてまいりました・・です
が、これからはそういうわけにも行きませぬ・・・あなたがお隠れになってしまわれるのだから。・・秀頼と二
人、人の道を踏み外すことなく生きていくためにも真実を知っておきたいのです・・・」
「・・人の道と?・・・わしが踏み外してしもうた道か!」
「茶々の為に?!」
その時、秀吉の目が極限まで見開かれた。生気のない澱んだ眼光から神異にまで昇華した愛が物凄い
執念のオーラを放ち、淀殿はその力に圧倒された。
「・・そなたは・・何もわかっていないのじゃ・・・」
地が勝気な淀殿、直にむくれるのを承知で秀吉は云った。
「何がわかっていないとおっしゃるの・・?・・・茶々は秀吉さまの言いつけを守って・・・!」
「ならば問う、そなたにどんな後ろ盾があるのじゃ?・・・」
「!・・・・・」
「そうしてな、きついことをいうようじゃが・・・側室にも位があってな・・・」
「・・では、茶々は本来ならもっと低い位の側室だと・・・?」
「わしの主筋にあたるというても、そなたの父も母もわしに敵対して果てた身じゃ、わかっておろう。・・世継
ぎを生まんかったら、そなたは誰が見ても・・お麻阿の次じゃで・・・」
「・・殿、本心で今のお言葉を?――もし、そうであるなら・・・!」
「この場で自害するというのだろう。――許せ、お茶々・・・わしはお前にありのままの姿を教えたかったの
だ・・・」
「・・茶々はあなたの愛を誠と信じて・・この身を任せたのです。・・生きんが為では決して!」
「お茶々、お前は純粋なおなごじゃ・・・ようわかっておる。――わしはそんなお前が・・・気の狂うほど愛お
しい!・・・」
秀吉の衰弱した眼孔から執着の愛が爛々とほとばしって、凄絶な感すら漂ってくるのだった。
「・・お前の立場は弱い。仇のわしやその正室から妾としてそれも一番下位の妾として扱われたら、お前の
か細い心は到底屈辱に耐えられまい・・・。しかし、断じてお前を死なせるわけにはいかぬ・・・」
「それで殿はあのようなお約束を・・・茶々にだけ子を授けるつもりで・・・」
「・・世継ぎが生まれればお前は生母、子が大きくなればいずれ正室に劣らぬ権勢を持つだろう。ならば側
室といっても実質は正室と同じ、その誇りを持ってお前に生き延びてほしかった・・・おねの怒りを重々覚悟
でな・・」
秀吉は最愛のお茶々を側室にしてからも徹底しておねを立てた。他の側室も舐めるように可愛がり、淀殿
への殊寵を殊更糊塗した。閨房の乱れがひいては国の乱れに発展した玄宗の轍を踏むことを極力恐れた
のだ。
秀吉の腐心で一見穏やかな女の城も、しかし、内輪は言わずもがなのドロドロ絵巻が繰り広げられていた
としても不思議ではない。なにせ側室を夫の慰みものぐらいにしか思いたくなかったろうおねは、世継ぎを生
む淀殿の出現にまんかかと呼ばせて正室の権威を振りかざしてみても、己の権勢が将来的に脅かされる危
機感に取り巻きの侍女とともにあたふたしたに相違ない。そればかりではない、おねは自分が石女でないこ
とも当然知っていたろう。子供を産ませてもらえない妻や妾たちの妬みや憎しみが、人前を憚る夜の秘め事
ゆえおおっぴらに出来ないぶん、ますます陰にこもり湿にジメついたイヤガラセとなって淀殿主従を悩ませた、
なんて憶測は誰でも思いつく。
後に徳川が、おねのような浅はかな正室が出てお家を滅ぼされぬよう、世継ぎを生む側室に御生母の権
威・権勢を黙認したことは得策中の得策だった。
「・・・茶々がこれまで身に受けたあらぬ密通の中傷も、正室さまたちの怒りを思えば当然といえば当然・・・」
「それも恐らく、ただお前を辱しめる為だけではなかろう・・・姦通の濡れ衣を着せて、そなたや秀頼を陥れる
謀じゃ・・・。今後も気をつけねば・・・」
「なんと恐ろしい!・・・それほどまでに茶々は憎まれているのですか・・・」
目に余る寵愛を受ける者なら、女の呪いが跳梁する城で生きるのも定めと己が力を振るって居直りそうな
ものだが、天下人秀吉に凡な夫婦の絆を夢見ている淀殿は、今一つ我が身の置かれた状況がピンとこない
甘さがあった。秀吉にはそれがもどかしくもあり、放っておけないいじらしさの一つでもあった。
「家康がおらんでも、わしが死んだらお前の命は危い・・・秀頼にも難が及ぶやもしれん。・・みすみす合議制
を取ったのは、後を任せられる器量のものがおらんかったせいもあるが、おねや譜代の武将が信用できんか
ったからじゃ。・・・五大老に据えた宇喜多秀家は、お前も知っての通り、わしがこれまで実子のように力を入
れて育ててきた男だ。秀頼の後見人として最も期待し信頼しておる。・・が、未だ力不足は否めん・・それが、
無念じゃ・・・」
「・・・弱い茶々を護る為に、大陸侵略のお考えを・・・・・?」
「・・仕方がなかった・・・。お前たちを護る新体制を築きつつあったがまだまだ脆弱で、おねの息のかかっ
た旧体制の不満が爆発すればひとたまりもない。不平の矛先をそらす必要があった。朝鮮出陣では子飼
いの武将にさらなる論功行賞を、おねには今以上の栄耀栄華を期待させた。・・・勝とうが負けようが、とに
かくそれしか方法がなかったのだ。
豊臣が天下を統一したといっても名ばかりじゃ、力不足は否めん・・・奉行と譜代の武将がなにかと対立し
て家臣の結束力もなければ、家康が小牧長久手の戦で見せた大名の底力もない。所詮、成り上がり者の
主従なのじゃ。・・・時が欲しかった、豊臣が名実ともに天下一の大名にのし上がるのに・・・その為に朝鮮
出兵や城普請で全国の大名の力を抑え、殺がねばならんかったのだ・・・。が、朝鮮からあのような痛まし
い塩漬けが送られる度に・・・わしは・・・罪のない弱者を犠牲にして愛する者を護り、豊臣の繁栄を築こうと
している己の罪の深さに・・・何度、そら恐ろしさにこの身が震えたか。志半ばに無念にも死病にかかってし
もうたのも、当然の報いじゃで・・・」
「秀次さまの謀反も・・・もしや、殿が謀かられたことでは?-――いつぞや正室さまの侍女が聞えよがしに
噂しておったのを小耳にはさんで、以来ずっと辛く思っておりました・・」
「ちがう!・・・。秀次は弟の秀長が亡くなって、唯一人の身内の武将だ。わしも秀頼の後見役としてどれだ
け頼りにしたかったか。・・・あいつは小さいときからわしを慕ってのう・・・戦でもわしの前で手柄を立てよう
と懸命に働きおったに・・・」
幼い頃より可愛がっていた甥の哀れな最後を、叔父の己が下した非情な裁きを、脳裡の襞にそっと隠して
いたのに今また目の前に引きずり出されて、秀吉はやりきれない面持ちになった。
「・・そのお話を伺って久しい胸のつかえが取れました。・・・殿の側に座って楽しそうに笑っている秀次さまが
今でも瞼に焼きついておりまする。思い出す度に・・・何故か関白殿が可哀想でなりません。やはり、若君と
三十余人もの女人が河原の露に消えられたことがこんなにも悲しみを誘うのでしょうか。・・・関白殿はどう
して謀反など・・・」
「周囲の悪い思惑に流されて歯車が狂ってしまったのじゃ・・・。わしは今でも秀次が忠義心の篤い、根は誠
実なやつだと思っている。器量もあり有能な男だが、あいつにはどこか人に紛動される性格の弱さがあった。
騙され易いというか・・・結局、わしをとことん信じきれなかったのだろう・・・わしもそんなあいつに疑心暗鬼に
なっていったのは事実じゃ。・・・じゃが、血を分けた甥にあそこまでするとは・・・ああ、あの時の蝉時雨がまた
鳴いておる!・・・」
「蝉時雨?」
「秀次が妻子を思う、嘆きの蝉時雨じゃ!・・・」
文禄四年八月二日京都三条河原にて、秀次の首級を前に、白装束の息四名と妻妾三十余名が斬罪に処
せられた。夏の青空めがけて真っ赤な血飛沫があがるたびに、近くの林の蝉時雨がけたたましくさんざめい
た。伏見城で処刑の様子を聞いた秀吉の耳にも、不思議と雄蝉の泣き声がはっきり聞こえたものだ。
「秀次は潔く腹を切ったのに、わしにその誠も認めてもらえず、死んだ後も極悪人の烙印を押された上、一族
家臣は全て死罪に・・・惨い話じゃ!」
「・・あまりにも辛うござりまする・・・もう、お止めくだされ!」
「他人のそなたですら、そんなに辛いと申すか・・・?」
「殿!・・・」
「秀次はわしの実の甥じゃ・・・なんで憎かろう?・・・情をかけてやりたかった、どれほど助けてやりたいと思
ったか。・・・できなんだ、豊臣を継ぐお前たちのことを思うと・・・」
「・・妻妾まで死なせなくとも・・・」
「・・他の武将への見せしめもあった。・・・秀次の暴状で傷ついた豊臣の威信も回復せねばならん。・・・力の
ないお前たちに将来禍根の恐れとなるものは一切見逃すわけにはいかなかった。―――かわいい妻子を守
るためなら、わしは・・・人でなしの鬼にもなる!」
「!・・・殿の意志は冷たい金剛石のよう・・・敵になる者はさぞや恐ろしい心地を味わうことに、そして無限
の恨みも―――」
淀殿はこの時、無情の闇に葬られた秀次一族の報いを、ふっと我が身に予感した。
「されど・・・」
「なんじゃ・・・?」
「・・あなたほど愛情の細やかな、深情けの方もめずらしいかと・・・妻妾はもとより親族家臣に至るまで、そ
の者の望みをいち早く察して添うように御慈愛を注がれるのだから。・・力さえあれば、きっと殿は慈悲深い
国主にもなられたはず・・・。でも、あなたから慈しみを受けても・・・自分の力かなんぞのように自惚れて恩
義を忘れる思い上がり者もおりまする・・・」
「・・人はそういうものだ。・・それが普通の者じゃで。――お茶々、お前さえわしの真を忘れなんだら、わし
は満足じゃで・・・。でなかったら・・有り難い師匠に詰め腹を切らせた豊臣秀吉は・・浮かばれん!」
「・・やはり、利休殿も・・茶々のせいだったのですね・・・」
「そなたのせいではない・・・。忠節を曲げぬ利休が疎ましくなったのじゃ・・・愚かな弟子だわ、わしは」
「秀吉様は利休殿のことを、聡明で何ものにも屈せぬ勇敢な男だと常々誉めそやしていたではございませ
ぬか。・・師として申し分ない方だと・・・?」
「利休はよく仕えてくれた・・・わしも信頼していた、尊信の念すら持っていたほどだ。・・・が、さすがに師匠、
わしの全てを・・ふっ・・見抜いておったわ」
「利休殿は何を見抜かれたと?」
「天下統一は信長さまでも家康でもなく、わししかできなかっただろうと。・・だが、わしには天下を治めて行
く因縁がないと利休は申した」
「因縁がない・・・?」
「わしがどんなに才覚を絞って天下を取り、天下人にふさわしい妻に世継ぎを生ませ、天下の豊臣家を守る
忠臣団を築こうとしても、所詮は己の現身を忘れた凡夫のあがきに終わると言いおった。わしが無力で卑し
い身だった因縁を忘れて慢心を起こすなら、殿は非道につき進むだけだと利休は諫言したわ・・・。じゃが、
利休は悟っておった・・・わしがもう、真の自分にしか生きられんのをな・・」
「利休殿はそれでもご忠告を・・・」
「律儀な師匠じゃ・・・忠臣過ぎる男だった、利休は・・・。かわいそうだが三成たちの手前、口を塞ぐしかな
かった・・・!」
「利休殿は・・・正室さまや譜代の武将がどうしても妾を滅ぼさずにはおかないことに疾うに気がついてお
られた。・・どの道妾は生きられぬ身かもしれぬが、殿に背かれて死ぬのはよほど辛い!・・・利休殿、許
して下され!―――茶々は悪いおなごじゃ・・・この愛でいとしい秀吉さまに現を失わせてしもうたのだか
ら・・・妾ごときはあの時母さまにお供して死ねばよかったのじゃ・・・ならば殿を狂わせることもなかったも
のを!」
淀殿は布団の端に縋って激しく泣き出した。感受性のとぎ澄まされた女だから、言えば自分を責めること
は予想していた秀吉だ。「お前のせいではないんだ」と強く抱き締めてやりたい。が、手の先がちょっと動
いただけだ。疲れきっていた。秀吉のめっきり老けた潤んだ目は、愛するいのちの痛烈な苦しみをただ見
守るしかなかった。
(五)
暫しの時が流れた。
淀殿は三十路を越えたのも忘れ、子に戻ったように泣きじゃくっていた。
唐突に、秀吉の素っ頓狂な、若作りの声が絞り出すように発せられた、
「お茶々さま!機嫌を直して早う泣き止んで下され!・・猿が打たれますゆえ!」
「!・・・猿・・・・・」
二十五年前の淡い色彩の中に、二人は蘇った。
「茶々、覚えているかい・・・?」
「はい。・・秀吉さまをまだ猿、猿と呼んでいた頃のこと・・・よく抱っこをせがみましたわね。子供心にもあな
たを父の仇兄の仇と憎んでいたのに、あなたに抱かれると訳も分からず甘いような切ないような愛情を感
じて、それがものごころついた時よりぼんやり求めていた懐かしいものだったりして、また抱っこを・・・」
「おお、そうじゃった。そうして何回か抱き上げているうちに、不意にお前は涙がこぼれそうになっている目
を吊り上げ、『猿なんか大嫌い!』と云ってわしの頬を思いっきり抓ったものだ。それからひとしきり泣くんだ。
誰があやしても泣き止まぬ。そのお前の可愛さといったら・・・」
「懐かしい日々・・茶々はあの頃に戻りたい・・罪を知らぬあどけない妾に・・・」
「そなたに罪などあろうものか!・・・すべてはわしの煩悩から出たことじゃ・・・」
「煩悩・・・人には様々な欲がありまする・・・」
「・・おなごへの愛じゃ・・・お前と巡りあって初めてそれがわかった・・・わしの生きる源泉は愛欲だったの
だ・・・」
「愛欲と・・それほど女人を・・・」
「そなただけじゃ、秀吉の愛は!―――なあ、お茶々、わしは利休の申すとおり、天下人など雲の上の話
にしとけばよかったと思うことがある。ならば、おねたちも分相応で満足させたじゃろう。・・・わしが踏み入
れてはならぬ領域に入ってしまったばかりに、こんな地獄を味わうのかと・・・。―――じゃがな・・・」
「・・・・・?」
「・・わしはこの愛欲が満たされると信じて天下統一を果たせたと思う。どうにもならん煩悩こそがわしに勇
気と知恵と慈悲を奮い立たせる原動力になったんじゃ。―――お茶々、お前と秀頼はわしの命じゃ・・・秀
吉がこのまま生き続けたとしても、お前たちを守らんといっそうの業火となって燃え狂っていくだろう・・・!」
「!・・・・・」
淀殿が思わず凝視した秀吉の大きな、あまりに深い目。そこに湛える無限の激愛こそ、幼い頃より正体
も分からず求め続けていた感情そのものだと知って愕然となった。―――お茶々もまた秀吉と同様、同じ
穴の貉だった。
「秀吉さまは難波の海のような方・・・凪のときは生き物に限りない慈愛をふりそそがれるけど、一度時化
ると凄まじい恐怖をお与えになる・・」
「難波の海か・・・。川には流れて行く海が必要なように、海にも川の流れが必要なんじゃ。・・難波の海に
はお前と同じ名が付いた川が流れ込んでいる・・・淀川じゃ。お前にそっくりの川じゃ・・」
「妾にそっくりの川・・・」
「そうじゃ・・・大きな川幅にたゆとう豊かな流れはお前の溢れんばかりの愛・・・何ものも押し流そうとする
強さはわしを信じて如何なる者にも屈せぬお前の勇気・・・川で生まれたものを海に育てさせ大きくして帰
って来させる回帰の仕組みは、わしの考えを理解し吸収しようとするお前の知恵だ。―――海が川と一体
となってあらゆるものに恵みをもたらすように、川も海と一体となって海を助け流域を潤す。父なる難波の
海がわしなら、お前は母なる淀川じゃ。・・・わかっておる、誰も今の二人からそうは思ってくれぬと言いた
いのじゃろう。――難波の海と淀川はな、茶々、わしとお前の真実の姿だ。わしたちを苦しめる全ての因
縁から二人が解き放たれたとき、わしとお前はその真実を顕すのじゃ・・。わしは見たい!・・その時のお
前の幸福な姿を!・・・」
「茶々も・・・殿の安らかな笑顔をいつかは見てみたいと・・・!」
「うむ・・・。―――言っても詮ないことだが、そなたがわしの正室だったらどんなによかったろう。きっと夫
婦一体となって戦乱の世を乗り切り、初志を貫いて鼓腹撃壌の世を共に喜び合ったであろうに・・・。大坂
城の大天守に輝く金の阿吽形の鯱瓦には、夫唱婦随で安定した慈政をあまねく天下に行き渡らせたいと
いうわしの願いがこもっておる。――わしとそなたの麗しい、実の鴛鴦夫婦の象徴じゃ!・・・」
「・・側室の身でありながらそこまで・・・茶々は誠、うれしゅうござりまする・・・!」
「・・悲しい因縁じゃな、こんなにも純粋に愛し合っているのに・・・夫婦になれないとは・・・」
「・・・本当に辛い・・・。死んで生まれ変わったら、今度こそ秀吉さまと茶々は晴れて夫婦になれますか?」
「なれると―――」
答えかけた秀吉がつと目を逸らした。呼応するかのように淀殿も目を逸らした。そこに次の生には触れ
てはならぬという暗黙の了解が漲った。二人は直感したのだ・・・来世もまたこの因縁を繰り返し、その時
こそ最悪の事態――茶々の生まれ変わりの生命がおねたちの生まれ変わりの生命によって密通のえん
罪を着せられ、無念にも殺される――が起こってしまうにちがいないと・・・。
あの世に希望を繋ごうとした、いじらしい二人に水を差すかの如く走った不吉な予感が、病床を重苦しく
圧迫したのはいうまでもない。なにせ死して猶不幸な悪因縁が切れないとしたら、救いは永劫やって来ない
のだから・・・。
絶望の帳の中にあっても、秀吉の玄妙な機智は冴えていた。
「お茶々、今度は子をつくらぬことにしよう・・・さすれば、お前と一緒に死ねるでな・・・。わしが先に行けば、
待ちくたびれてまたよからぬ迷いを―――」
「秀吉さま!」
「すまん、つい口が滑ってしもうた。・・・重石が必要じゃわ、わしのこれは!」
と、皺だらけの口元をきゅっと尖らして、ひょっとこ丸出しの阿呆顔をして見せたのが、可笑しいやら情け
ないやらの淀殿は笑いたくもない顔が思わずほころんだ。
秀吉はなごんだ淀殿を見てすかさず、
「茶々、わしが死んだらお前は秀頼と共に大坂城へ入れ」
「・・はい・・・」
「・・それから、一つだけ言っておく。三成のことだ。あやつは側近としては有能な男だが見かけほど忠義者
ではない。わしの力を笠に着るようなところがあって評判も悪い。実力もないのになかなかの野心家じゃ。
決して信用するな。――分かったな?」
「はい――」
「・・ああ、疲れた。―――茶々、手を」
「こんなに汗をおかきになって・・・・・」
「お前に手を握られると、何故か幼子の心地になっていく・・・甘えとうなるんじゃ。仕様がない爺だな、わしは。
―――お茶々、この手、永劫忘れるでないぞ!」
「はい!・・・」
「うむ。・・・ああ、眠とうなった――」
死病に取り憑かれ日々衰弱していく秀吉が人払いの配慮をし、茶々と半時ほど遺言じみた会話を交わした
のは、慶長三年七月初旬の蒸し暑い夏の午後だった。
淀殿は秀頼の手の汗ばんだ感触を左手に覚えながら、十七年前のあの時のことを思い出していた。秀吉
の辞世と共に何度も偲んでいたので、多少褪せても記憶はほぼ正確に蘇った。
記憶が一通り脳裡を駆け巡ると、千々の感情がアンチノミーの形を取って葛藤を繰り広げるのが常だった。
愛と憎しみ、誇りと卑屈、覚悟と心情といった命題にいつも集約され、結局淀殿にとって愛は絶対的存在の
何ものでもなく、愛を彩る誇りもそれを守る覚悟も必ず付随した。が、背反する感情も恨みとなって心底に
沈んでいき、消えはしなかった。
人の心はどんな時でも揺れるものである。淀殿はこの場に及んで例の葛藤を抑えることが出来なかった。
よく言えば迷い、悪く言えば愚痴か・・・。
・・・とうとう、最後の時がきてしもうた。・・こうなることは覚悟していたが、あまりに不憫じゃ!・・・清廉潔白
のわが子に咎などありはしないのに!
・・妾は殿のおっしゃる通り、秀頼に小さい時から文武両道を鍛錬させ、将来の名君に相応しい心と身体が
備わるよう、強く、正しく、清らかに育てて来た。また秀頼にもその器量があった。・・・将来なんぞあろうは
ずがないのは分かりきっていたけれど、殿の言いつけを一途に守ってきたのじゃ。・・今振り返れば、我ら主
従、よくぞ耐えれたと・・・!
・・秀吉さまの思い出せば涙が止まらぬほどの死に際のご尽力と、逆臣どもの嘲笑のなか妾が太閤の遺命
を守り抜いたことが功を奏して、家康も他の大名の手前無碍なことも出来ず、この大坂城で母子水入らず
の生活を十七年も続けられた・・・有り難い限りじゃ!・・・もはや思い残すこともない・・・・・
・・秀頼の幼い時からの努力も冬、夏の両陣で報われた。・・・たとえ戦は負けてもじゃ・・・・・秀頼は太閤の
世継ぎとして最後まで屈することなく、正々堂々と戦い、逆臣家康の非を天下に立派に知らしめた。それゆえ
真田殿をはじめとする報恩篤い忠信の武将たちが、欲で釣られた家康軍の武将など足許にも及ばぬ見事な
働きぶりをなさったのじゃ・・・アワレなことぞ!よう秀頼を盛り立てて護って下さったと、妾は手を合わせて拝
みたいほど・・・太閤もあの世から涙を流して喜んでおられよう。
・・それにつけても憎きは家康、徳川の間者をこの城に蜘蛛の巣みたいにはりめぐらし、常に壁に耳あり障
子に目ありの状態にして城が城としての働きをなさぬ有様。こちらが有事に備えて武器を入れとうても、た
ちまち家康に漏れて大事に至る故、それも出来ず、思う存分の準備もないまま今日を迎えてしまった。・・
豊臣家はこれまでずっと生殺し同然だったのじゃ!その鬱憤が爆発してこのような見事な合戦と相成った。
家康から見れば一寸の虫けらの我らにも武家の意地と誇りがあるのじゃ・・・思い知れ!・・家康!
・・されど卑怯者の老獪のこと、豊臣の者にすんなりと死に花を咲かさせはしまい・・・己の利の為なら何
でもする性根の腐った男故、我らの潔い死すら辱しめる魂胆やもしれぬ・・・今までが万事そうであったよ
うに!・・・・・
・・家康は不味いだんごで釣ったおねを巧みにかつぎあげ、太閤の遺命を曖昧にしおった。・・恐らく、三
成が己の保身や身のほど知らずの野望の為に戦を仕掛けて来るのも読んで、あの窮地に三成を匿って
やったのだろう。――そして、関が原の戦で家康に寝返った、欲ぼけ秀秋の破廉恥な裏切りじゃ・・恥曝
しめ!・・・・・悉くは・・秀吉さまの懸念されたとおりになってしもうた・・・!
・・家廉め、この上は豊臣滅亡を妾がひとえに高慢のせいにするのは目に見えるようじゃ。己の腹のどこ
にも豊臣存続などあらぬものを!よしんば妾が家康を信じて恥を忍んで城を明け渡したとしても、秀頼は
訳の分からぬ難癖を付けられて詰め腹を切らされておっただろうに!
・・・我らがこのまま散っても、秀頼の正義は、家臣の忠節は、妾の捨て身の愛は、決して陽の目を見る
ことなく虚という闇に葬られて行くのだろうか?!・・・真実の我らを抹殺された怒りと悲しみはたとえこの身が
滅びても、生殺しの苦しみとなって続いていくのだろうか?!・・・それを思うと苦しい!苦しくてたまらぬ!――
秀吉さま、あなたを死守した我らをどうして護ってくださらぬ!・・何故、これほどまでに辱しめるのじゃ!
家康の悪巧みに到底勝てぬ、そんな思いが奈落の絶望となって淀殿を追い詰め、この女人の堅固な愛
と信頼を一時あの世のいとおしい夫から奪わずにはおれなかった。
・・・さては秀吉め、茶々をたぶらかしおったな。己の出自を卑屈に思うて、死後を武家らしく飾ってくれる
女が欲しかったのであろう。あの時の言葉はその為の謀。十七年間真っ正直に信じてきた妾が間抜けだっ
た。・・・所詮花は花、実ではない。世間が言うように秀吉はちゃんと妻と妾を使い分けていたのじゃ。・・・己
の名実の妻はどこまでも正室おね、妾は老いた秀吉を狂わせた側室にすぎぬ。・・・秀吉は妾の純情を思
う存分弄んでいただけなのじゃ!・・・憎い仇を信じてこの身を任せたばかりに、こんな憂き目を!―――
秀吉め!・・お前への恨み・・永劫忘れまいぞ!―――我ら純真の忠義者を欺き、辱しめ、陥れた家康!
おね!小早川秀秋!豊臣を裏切った逆臣ども!・・己たちの所業を恨み抜いて死のうぞ!・・・・・
憤怒で辺りが真っ白になった目が、ふと淀殿を振り返らせた。何かに惹かれるように、もう一度、今度
はゆっくりと振り返った。―――そこに見たものは、主人にお供して殉死に赴く者たちの、どの目からも
清らかな涙が美しい輝きを放って流れ落ち、口元には安らかな微笑すら浮かべた誇らしげな顔、顔、顔
だった。淀殿の一時燃え上がった地獄の怨火は、忠臣たちのはや浮世を解脱した清浄な魂に触れ、
すーっと鎮火していくのだった。
・・あと数段登れば天守・・・妾の手を引いてくれる秀頼の濡れ手みたいな汗は・・・あの時の秀吉さま
と同じ・・・《お茶々、この手、永劫忘れるでないぞ!》・・・!
不意に至福の歓びが淀殿を貫いた。瓜実の白面は艶々と気高いばかりの輝きを見せ、切れ長の一重
は横溢せんばかりの愛情で潤み、ほのかに開いた愛らしい口元から今にも愛の歌がこぼれ出て来るの
ではと思われた。・・・いつしか淀殿の眼差しは慈愛に満ち満ちたものとなって、わが子秀頼や家臣に注
がれていった。
秀頼よ、母はお前がいるから、これまで何とか耐えて来られたのだと思う・・・幸せな母じゃ!
そなたたち忠臣の者にも本当にすまぬことをした。・・・妾に徳がないばかりに守ってやることもできぬ
・・・許しておくれ!――ああ、お前たちみんなをしあわせにしてあげたい!豊臣のために命を散らせた
者たちになんとか報いたい!・・・いつか、必ず、太閤とともに!
意気地なしの茶々なれど、妾は豊臣秀吉の実の妻じゃ・・・妻ならば夫の誉れを守るのは当然、夫が
犯した罪を償うのも当たり前のこと・・・子供や家臣を道連れにするのは忍びぬが―――秀頼公に殉じ
て、我らは今、殿の許へ参ります・・・・・
毅然と結んだ淀殿の口がわずかに開いて、歌が漏れた、
太閤の とわにかがよふ つゆとゆめ 難波の城に みをつくしても
そのとき、秀頼が母の歌を聞きとがめて振り返った、
「母上、我らの死は決して徒にはなりませんよ。いつかきっと、豊臣にも陽の当たることがありましょう。
――かかはたいそう桜が好きじゃと、そういって父上はいつも花見を待ちわびておられた。花は散り際
が肝心、我らも桜花に負けず見事に散って参りましょうぞ!――秀頼は最後まで母さまを護り抜きます。
・・・父上と交わした男同士の約束ですから・・・」
「秀頼!!――」
(第二部 終わり)