第三部 蘇生
 

                                           
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 (一)
 杉原まり慧が、あろうことか楊貴妃や淀殿の生まれ変わりだと朧にも己のいのちに悟ったのは、一年前
喜山諄也という男にめぐりあってからだ。
 幸か不幸か、今生のまり慧には妖しげな美貌もなければ妖艶な肉体も持ち合わせていない。その昔落
ちぶれるまでは蔵や茶室や一町ほどの借家があった名家のお嬢ではあったが、高貴な人とはおよそ縁無
しの境涯だった。
 まり慧は小さい時から無性に愛に飢えた。賭博に溺れた父親と愚かな母親の偏愛という家庭不和の背
景もあるにはあったが、それでもまり慧の愛情欲求は並ではなかった。
 思春期になると、まり慧の愛は行き所を求めて迷子のようにさまよったものだ。親にはぐれた幼女が人
込みの中で母親に似た人を追っかけていくように、愛は行き所らしきものを求めて彷徨した。おかげで失
恋という名の惨めな人違いを何度も味わった。挙句、女の肉体を弄ぶ鬼畜のような男の擬似愛にまんま
とひっかかかってしまった。猶悪いことにお定まりの不倫だった。ひとりよがりの純愛に突っ走る青い娘が
邪淫の罪深さを知るはずもない。たとえ知ったとしても追い風になっただけだろう。
 愛の不幸はそれからも続いた。永遠を約束した夫は三年目で豹変。まり慧の若き日の過ちを持ち出し、
いたぶり、責め苛んだ。夫は妻の泣き所につけいる弱い良人だった。やっとつかんだと思った幸せも無惨
な人違いに終わった。

 まり慧が日蓮正宗に縁したのは日毎暴れる酒乱の亭主から逃げるように別れ、僅かな持ち金で安ホ
テルを転々としながら職を探していたときだ。
 まり慧は死ぬつもりだった。デスクワークの経験もなく、これといった資格もない女が出来る唯一の仕
事は肉体労働しかない。その仕事が出来なかった。三十九歳だが子宮を取ってからというもの体力の
衰えがひどい。軽い労働でも少し続くと動悸がして胸が苦しくなった。かといって生活保護が受けれる病
名も見つからない。
 もう生きていけないと観念した時、母親が唱えていた南無妙法蓮華経の御本尊様を死ぬ前に一度拝
みたいと願った・・・・・


 その日、トアル日蓮正宗のお寺の本堂でまり慧は御本尊様と対面した。
 板御本尊様は荘厳に飾られた祭壇の中心に金色に輝きながら、清閑に、やさしくあたたかく、凛とした
厳しさでおわした。
 まり慧は他の信徒に混じって手を合わせお題目を唱えた。初めて拝むのに胸がつまり涙が溢れ出てく
る。苦しんでいる子供が懐かしい親の慈しみの眼差しにあって思わず泣いてしまう、そんな心境だった。
 やがて御僧侶の読経が始まり、まり慧は経験したことのないえもいわれぬ心地よさにつつまれていくの
を感じた。
 安楽?安穏?ああ、なんて形容すればいいのかわからない。私の中の苦しみが仏様の大慈悲に全部
吸い取られて行くみたいだ!
 その時長者窮子の譬えがまり慧に浮かんだ。親に背いた子供が長い間他国を流浪し、困り果てて父の城
にたどりつく。窮子はまり慧と重なった。
 私も遠い過去世に仏様が信じられなくて恐ろしい謗法を犯したんだ。その報いでこんなに苦しんでいる。
だけどやっと仏様に再会できたわ・・・ほんとうにありがたい!・・・抜苦与楽の悦びがこんなに凄いものと
は知らなかった・・・・・

 方便品に続いて寿量品、自我偈の読経が終わり、御僧侶自ら太鼓を打ちながら唱題が始まった。
 ドーン、ドーン、ドーン、――――
 唱題に合わせた太鼓の音がいのちの奥深くまでしみ入り、浄化し躍動させるのをまり慧は感じた。驚きに
体が震えるほどだった。
 いのちをゆさぶる歓喜の唱題が終わり、御僧侶のきよらかな御祈念のあと、一同で厳かに三唱してお経は終
わった・・・

 不思議な現象だった。お寺を出ると、あれほど重苦しかったまり慧の心が絶妙なやさしさにつつまれ清々し
く蘇生しているのだ。そればかりでない。絶望一色の境涯から必ず救われるという不可思議な確信まで湧
いてくるのだった。
 人間という凡夫の浅はかな知恵ではおよそ理解できない、御本尊様のご威光を御僧侶に導かれてまり慧は
体験することができた。この時まり慧の仏性は、長い眠りから漸く目覚めたのかもしれない。

 それからのまり慧は一途に御本尊様を求めていった。一度死を覚悟した者に正義の信仰はありがたい支え
であり、救いであり、最後の望みだった。
 まり慧は信仰にわが身のすべてを託したかったし、託すしかなかった。もともと信じるものに命を投げ出
す純情な女だった。一心欲見仏 不自惜身命と教えられれば、命がけの信心をしなければと律儀に思う
女だった。
 まり慧は日蓮正宗の御本尊様が、あらゆる衆生をいのちの根本から救済する真実の仏様と心底信じたいと
願った。信じきれない自分が醜いとも思った。人から見れば自分はバカがつくのかしらと思わないこともなか
ったが、まり慧はそういう女だった。

 初信の功徳は思いもよらぬ形で表れた。まり慧が想像もできなかった現証は、過去遠々劫愛の煩悩に
さまよい続けてきた男と女の蘇生の第一歩であった。愛の恨みに血塗られた無間地獄の淵から脱出しよ
うとする男女の、再会の瞬間だった。
 引き裂かれた干将莫耶の雌雄の剣は互いを求めて激しく泣くという。永遠に求め合い、結ばれては凄絶
に引き裂かれる宿命を背負った玄宗と貴妃、秀吉と淀殿、諄也とまり慧。二人の無間に続く恨みを、地獄
の底からの悲痛な嘆きを、御本仏日蓮大聖人様もあわれに思し召されたのだろうか・・・・・




                              




 (二)
「奥さん、あそこのホテル高いでしょう?」
「えっ?」
 汚れ物を抱えコインランドリーに入ろうとしたときだった。まり慧が振り向くと、しみだらけのくすんだ顔に厚
化粧が浮き上がった五十過ぎの女が親しげな様子で立っている。
「浪はなホテルのことですか?」
 まり慧は驚いた目で聞き返した。
 この人、どうして私がホテルの泊り客だと知っているのかしら?
 まり慧は訝った。
 女もちょっとシドロモドロになって、
「き、きのうですわ。わたし、ホテルの前を通りがかったんです。そしたらねえさんが、いえ、奥さんが出てく
るのを見かけたんです。ほんとに偶然・・・」 
 さして疑いもせず、まり慧は女の言葉を信用した。それどころか相手の人なつっこい態度に不用意に引き込
まれていった。まり慧は人恋しかった。誰でもいい、声を出して喋りたいという欲求が充満していた。女はま
り慧のような女の孤独を心得ているみたいにも見えた。閑な店内で二人はしげしげと話し込んだ。
 女は賄い婦をやりながら飯場を転々としてきたことや、情夫が飲んだくれでよく殴られたこと、その男も先
だっての大火事で死んでしまって今は行くところもないなどと、涙まじりにくどくど話すのだった。
 まり慧も己の涙もろさを隠そうともせず、見ず知らずの女の話を真剣になって聞いていたが、女があんまり
気の毒に思えてどうしても信心の話を聞かせてやりたくなった。それでつい、自分のことに口をすべらせた。
 
「奥さんもずいぶん苦労したんやねえ。死のうとまで思いつめはったんやもん。ほんまにかわいそうな人や!」
 女はいきなり顔を覆ってわんわん泣きだした。どう見てもオーバーすぎる女の調子だった。
 まり慧は呆れ返ってちょっと白っとなったが、相手も一文無しの住所不定の身、切羽詰った状況は同類相憐
れむだ。こういう場のある種の雰囲気も手伝ってか、女がただの通りすがりに思えなくなってきた。
 まり慧の打ち解けたまなざしに、早速女はタバコ臭い息を吐きながらなれなれしくすり寄って来た、
「これからどうするの?ビジネスホテルじゃお金が続かないでしょう?」
「・・・・・」
「いいところを紹介するわ。一日千円で泊まれるホテルなんだけど。きれいなところよ、バスもトイレも部屋
にあるし。わたしも今そこにいるの。ね、奥さんもいらっしゃいよ」
「・・・・・」
「そこのおかみさんがえらく親切な人でねえ。わたしの話を聞いたらすっかり同情してくれて。奥さんもきっ
といい按配にしてもらえるわよ」
「すみません・・・いろいろ心配してもらって・・・」
 お金は一万五千円ほど残っていた。浪はなホテルだと今夜と明日限りだ。まり慧は追い詰められていた。
 こんな親切な人と此処で会えるなんて・・・もしかしたら仏様のお護りかもしれない・・・・・
 縋る思いのまり慧は、女がてっきり仏様の差し出したありがたい藁にも思えた。

 案に反して、どっこい連れて行かれた先はラブホテルだった。さすがにまり慧も気後れして入るのを渋った。
するとフロントにいたおかみが玄関先にわざわざ出てきて、女と同じことを人当たりのいいなめらかな口調で
話すものだから、困っているまり慧だ、おかみの人情が身にしみて嫌がったことさえ悪く思われてくる。しまい
には言われもしないのにナケナシの一万円を前金にはたき、おかみに厚く礼まで言う始末だった。
 二階の一室があてがわれた。部屋はそれらしき淫らな肉欲の臭いがしてこんなところに来るのも因果だ
と思いながらも、シャワーを浴びたりコンビニの弁当をつついたりしてまり慧は滅入る気をまぎらわせた。
 それにしてもまり慧という女は、どこまでも他人が自分と同類に見えるらしかった。おかみの善意を無に
しちゃいけないと明日から仕事探しに全力投球しようと決心した。この強欲な弱肉強食のご時世にまり慧の
ような人間を雇うアワレな会社もなかろうが、職安から貰ってきたわずかな求人票を眺めつすかしつしてい
るうちに夜も更けてきた。
 まり慧は朝晩欠かしたことのない勤行を、ラブホテルの一室で始めた。

 暫くしてドアをノックする音がした。
「だれです?」
「ここに雇われているものですが・・・」
 女のしわがれ声だったのでドアを開けると、昼間フロントにいたおばあさんが廊下の気配をうかがいながら
こそっと部屋に入ってきた。入るなり、
「奥さん、あんた、ここで何をされるか知ってるの?」
「何をって?」
「あんた、客を取らされるのよ!」
「客!・・・・・」
「ここは普通のラブホテルじゃないんだ。こわいところだよ。・・・あんた、なにも知らないだろう?」
 あたふた話しかけるおばあさんの眼鏡の奥に、まり慧を探るような色がちらっと浮かんだ。――と、もうドア
を開け、あたりを見回し行ってしまった。
 動転しているまり慧のどこかで醒めた理性が現状を把握しようとやっきになった。此処に連れ込んだ、やけに
馴れ馴れしかった女の黒い顔を思い出した。どこかの奥様風情といった、しらばっくれたおかみの顔も浮かんだ。
見知らぬ男が卑猥な目をして今にも部屋に入ってきそうな気がして、思わずドアを見た。――不安にめくるめく
恐怖が一挙にまり慧を襲った。
 ああ、どうしよう!どうすればいいの!
 堪らずお題目が出た、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――― 」  
 慌てちゃいけない!落ち着いて、まり慧!絶対落ち着くのよ!
 恐怖に焦る心を抑えてなんとか荷物をまとめた。そして、人の気配にびくびくしながら一階へ降りていった。
フロントにおかみが座っていたが玄関の自動ドアめがけて必死で走った。そのまま裸足で表に飛び出した。
走れない体でヨロヨロと走った。心だけは全速力で走った。後ろから追って来る気がして恐くて振り返れない。
ホテル街を抜け、歓楽街を過ぎ、国道までヨロヨロしながら、とにかくまり慧は無我夢中だった。




                                




 (三)
 車のライトがボストンをぶら下げて裸足で歩くまり慧を照らしては通り過ぎて行く。アスファルトの路面が素
足に気持ち悪かった。傍のマンションを見上げれば部屋の明かりがまり慧を孤独にさせる。
 なんで・・・こんなことになったの?
 この自問がバカげていることぐらい、オイシイ話に飛びついたまり慧にも分かっていた。
 ・・・御本尊さま、助けてください!
 まり慧は只今臨終正念と真剣にお題目を唱えようとした。が、出て来ない。もう、あかん!という諦めが口
を塞ぐ。またも死の影が心に揺らめきだした。
 まり慧は死魔に取り付かれた夢遊病者のような足取りでフラフラと、あたかも生死の境を彷徨うように歩
いて行った。

 知らずのうちに真生橋を渡り、静まった住宅街を通って、気がつくとお寺の駐車場に来ていた。
 まり慧は砂利石の感触を足の裏に感じながら呆然と立ち尽くした。ふと、御本尊様のおわす二階の本堂を
見上げた。手を合わせ三唱したものの、カーテンが引かれ明かりが消えた暗い窓は御本尊様までが、信じ
ている自分をあの女たちが欺いたみたいに平然と裏切り、救いを求めている自分を世間が拒絶したみたい
に冷たく切り捨てるのではないかと思えてくるのだった。

 まり慧という人間はこの世に生を受けたときから、定番の弱者だった。赤子の時は年子の兄が順調に成
長するためのこやしとなり、幼児の時は父親にいじめられた母親の鬱憤のはけ口となって精神的虐待を受
けた。学童の時は月謝が払えない、親にかまってもらえず不潔だ、よく泣く、たったそれだけの理由で問題
児の烙印を押され、教師がいじめの先頭に立った。娘になってからは鬼畜との不倫で周りから好色な女と
見られ、職場の上司から卑劣かつ屈辱的なセクハラを受けた。夫の虐待を受けるようになって警官に助け
を求めると、夫婦関係の仲だろうとイヤラシイ目で一蹴され、動悸がして胸をかきむしる苦しさを訴えれば、
検査の数値でしか異常が発見できないボンクラ医者に精神病患者のレッテルを貼られた。
 なんの因果か生まれてこのかたオチコボレまっしぐらのまり慧。オチコボレといえば弱者と相場が決まって
いる。弱者に選択の余地は無い。たとえそれが如何なる悪でも強いものには楯突くな、長いものには巻か
れろが弱者の定め、世の習いだ。ところがこの傲慢?な弱者、死んでも畜生の生命には染まれぬと、卑劣
な強者にアワレな蟷螂の斧をふりかざす稀有な純情女だった。

 過酷な現実に打ちのめされ、極度に追い詰められた状況でこのときまり慧の信は見思惑にくもり、この世を
支配している弱肉強食のセオリーが、御本尊様の信仰の世界にも当てはまるのではないかという恐ろしい疑
心暗鬼に陥っていた。この迷いこそまり慧のいのちに巣くっている元品の無明だったのだろうか。
 如何なる理由があるにせよ、不信の謗法はまり慧の罪障を噴出させた。
 助かるはずがない・・・死ぬしかないのよ!
 まり慧は真生橋の下の黒い水面を思い浮かべた。死相も顕わに足がもと来た方向へ向きかけたその時、
一台のセドリックが駐車場にすべり込んだ。まり慧は正面からまともに照らし出された。

 運転席の自動窓が開いて一人の男が顔を出した。街灯の明かりでは年齢までわからない。
「おい!・・・何しているんだ?」
 声は中音で太く詰問の調子だったが怒鳴ってはいなかった。
「・・・・・」
 まり慧は男の方をちらっと見た。直いたたまれないといったようにうつむいてしまった。
 男は暫く黙ってまり慧を見ていたが、車から降りてくると傍まで来て、
「君はどう見ても不審者だな。・・・そのまま立っていたら近所の人に通報されるぞ」
「警察・・・?!」
「まちがいなくひっぱられるぜ」
 まり慧は慌てて立ち去ろうとした。一二歩歩きかけて思い出したように男を振り返ると、「すみません」と
頭を下げてまた歩き出した。心が真生橋へと死に急いだ。

「待ちなさい!」
 かなり後ろになって男が叫んだ。 
「!・・・・・」
 まり慧は立ち止まった。男の声にあらがえない強引な響きを感じたからだ。この世に引き戻されるように
ゆっくりと振り返った。男の顔を、目のあたりをじっと見つめた。そうして、なぜだろう?まり慧の右手が無意
識にあたかも当然の如く男に向かって差しのべられ、降ろされた。
 男の方も単にスローモーションの一コマを見るようにまり慧の動作を見ていたのではなかった。男の目は
確かに何かを思い出そうとしていた。
 死におもむこうとする女と必死にすがって止める男。二人は無意識の中に確かにそのことをいのちに感じ
あっていた。

「その格好じゃ・・・」
 男はまり慧の裸足を見て顔をしかめた。
「送るよ。家はどこだい?」
「・・・・・」
「君の事情は知らないがとにかくいったん家に戻ったほうがいい。夜も遅いし」
「・・・家はありません」
「どうしてだ?」
 男は露骨に怪訝な声になった。
 まり慧はこれまでのみじめなストーリーなど、一見まとも風の紳士に話す勇気はとてもなかった。が、男の
まなざしは存外に優しそうで、口を開かせるムードもないではなかった。ぽっつりぽっつりと出てくる言葉を
男は重い表情で聞いていた。

「・・・じゃ、靴はそのホテルにあるんだな。取りに行くしかないな」
 男の行動は気持ちのいいほど迅速なものだった。まり慧の傍に車を寄せると助手席のドアを開けて、
「乗りなさい」
「・・・・・」
 まり慧は戸惑った。男を疑っている訳ではなかった。本能的に善い人だというカンはあった。
「・・・ご迷惑をおかけするのは申し訳なくて――――」
「いいから!」
 男の目はむろん有無を云わさなかった。

 車の中で男は自分はあの寺の信徒で今晩会合があったので寄ったと云った。
「君もあそこの信徒かい?」
「いいえ。・・・御受戒もまだなんです」
「・・できるだけ早くお受けした方がいいな」
「・・・はい」
「・・君は御本尊様に守られたね。ホテルのばあさんが諸天善神のお護りだったんだよ、きっと・・・」
 男は助手席のまり慧を見た。
「・・・そうでしょうか。・・・わたしが世間知らずのバカだったんです」
 まり慧は下を向いて黙りこくった。男に自分の不信を見透かされている気がして顔を上げられなかった。

 靴を取り戻したあと、男はまり慧が思いもしなかった行動をとった。行くあてのないまり慧の為に市内で
も著名な外資系のホテルに部屋を取った。固辞するまり慧の言葉など一切聞き流して・・・。

 初めて足を踏み入れた一流ホテルのシングル。案内のボーイが去った後もまり慧の心はそわそわと落
ち着かなかった。ビジネスの二倍はあろうかと思われる部屋は明るいクリーム色で統一され、かなり使い
込んだモダンな調度類はうす汚れていてもどことなしに高級感が漂った。
 わたしなんかが来るところじゃない・・・・
 ボーイの視線を思い出しながらまり慧は思った。
 何故こんなところへ連れて来たのかしら・・・わたしみたいな女を?・・・ああいったまともな人たちのちょ
っとした優越感?それとも奢り高ぶった偽善?・・ああ、いやだ!わたし、よほど卑屈になってる・・・
 男の行為を僻んで取っている拗ね者の自分――この女のこれまでの虐げられた人生の痛みがそうさせ
ていた――が、まり慧は正直鬱陶しくなった。
 
 シャワールームから出ると、まり慧はソファに座ってテーブルの上の夜食のそばに置かれた男の名刺を
眺めた。キヤマワークサービス、代表取締役喜山諄也、住所は大阪市内だった。
「明日の朝、そうだな、十時頃電話するよ」
 諄也はそういって背広の胸ポケットから名刺を取り出して渡すと、ロビーでまり慧と別れた。
 別れ際に見せた諄也の並びのいい白い歯や目尻がぐいと下がった笑顔をまり慧は思い出した。年は七つ
八つ上の四十六七というところか。白いものが混じった頭を短く刈り上げ、胸幅の広いがっしりした大柄な
体格は当然精悍な印象を受けた。太い眉、一文字にきっと結ばれた口は頑として譲らない屈しない意志
の強さを見せつけたし、とりわけ目が、くっきりと流れるような二重瞼の奥の表情が普通の人じゃないとま
り慧は直感した。実際、喜山諄也なる人物は人情の機微を解する並外れた才能を持っていたし、相手が
何を思い何を望んでいるか万里眼で見通す能力の持ち主だった。諄也のどこまでもフレキシブルな心は、
七変化の役者かはたまたカメレオンのウルトラCの変身技をもってしても追いつかない。この男は必要と
あらば、己の人格ぐらい自由に変えれる器量を持ち合わせていた。




                                                                




 (四)
 翌朝、諄也から電話があった。
「えっ?・・・あなたは・・喜山さん?」
 まり慧は思わず聞き返した。昨夜と違ってその声音がとても甘い低音だったからだ。
「・・・僕だ。今ね、君が住む部屋をあたってもらっている・・・家が見つかるまで安心してホテルにいなさい。
・・・何も心配しなくていい・・・わかったね」
 おそらくは不安で一杯だろうまり慧を安心させるためか、諄也は噛んで含ませるような口調で話した。明
日か明後日にも仕事が終わってからホテルに寄るとも云った。
 それにしても諄也の申し出は唐突で一方的だった。どう返事していいかわからず、まり慧が一言も喋らな
いうちにその電話は切れてしまった。

 そぞろな手つきでまり慧は受話器を戻した。自分の意志に関係なくどんどん事を進めていく諄也のやり方
にムカッとしているのは本当だったが、現実が現実でない心地なのも事実だった。これが悪夢か薔薇の夢
になるか先は分からない。まり慧の胸に今度こそ仏様の護りであってほしいという甘い願いが少なからずあ
ったのは否めない。
 車の中で諄也に手渡された二十万円を財布から抜いて、ドレッサーのそばの書き物机の上に広げた。綺
麗な新札の香がほのかに漂って、諄也の言葉を真に受けていいものかどうか、福沢諭吉に問いかけたくな
る茶目っ気にふとまり慧は駆られた。以前のまり慧なら諧謔が飛び出してくる余裕など断じてなかったのだ。
 喜山諄也に出合って、自分の中で何かが変わろうとしている予感みたいな実感みたいなどちらとも分から
ぬものを、まり慧はこの時ほんの僅かにだが感じた。

 朝から何も口に入れていないことに気づいて、食事に行こうかどうしようかとドレッサーの前に立った。パー
マが取れて肩まで伸びきった髪をひっつめにした如何にもみすぼらしい頭や、化粧けのないさして白くもない
やつれた肌や、目鼻立ちの小さな、中年女には少々酷い下ぶくれの童顔が映った。まり慧はまじまじと己の
顔を見つめた。次いで体のラインに目が移り、垂れた貧相な胸、たるんだ尻、ブヨッとした足に思わず目を伏
せてしまった。もう一度鏡を見るのにちょっとした勇気を絞り出さねばならなかった。
 おそるおそる瞼を開けると、涙を浮かべたような茶色目の女が不安げに、いじらしいほどの純粋さでこちら
を見つめ返していた。
 まり慧は上向きの鼻をつんと反らせると呟いた、
「わたしはお金で心が動く女じゃないわ」
 と負け惜しみを言ってはみたものの、今のまり慧に諄也の助けは絶対不可欠だった。だが縁もゆかりもな
い男の好意に甘えるのは生き恥をさらすだけだという恐れも依然ある。
 やっぱり自分は死ぬしか道はないんだ・・・・・
 そんな相も変わらぬ諦念の感情が死魔の如くしのび寄っては、まり慧の生命を惑わし弱らせるのだった。


 二日後、諄也とまり慧はホテルの地下にある「葉むら」という料亭で会った。九月も末の、台風の接近でや
けに蒸し暑い晩だった。
 しっとり慎ましやかな藍紬に派手な茶髪がピンピンはねた若い仲居が、BGMの琴の音が微妙な音量で流
れている店内を足早に案内した。
 まり慧は、仲居が出迎えたときに見せた険のある薄笑いに殊のほか傷ついていた。ボーイのときよりもこ
の娘はあからさまで恥知らずだった。その日まり慧は、十年前にスーパーで買った一張羅のスーツ、一昔前
に流行ったひっつめ髪にラメ入りシュシュ、ファンデーションとまゆ墨、頬と唇に紅をさしただけのこの女にすれ
ば最高の出で立ちだったが、高級飲食店の思い上がった店員から見れば、場違いな貧女に違いなかった。

 床の間に掛けられた中国の山水と菊花を生けた九谷焼の幻想的な光が、六畳ほどの部屋を悠久な空間
に演出していた。座卓をはさんで諄也とまり慧は向き合った。
 初めて会った時からなにか特別な絆のようなものをまり慧に感じていた諄也だった。この二日間でそれは
確かな感情に変わった。自分とまり慧の三世にわたる深い因縁を御本尊様との境地冥合によって知ったか
らだ。諄也は悟っていた。今宵のひとときが、前世のあの日以来今生初めてのそして最後の、二人だけの
仕合せな宴になると。まり慧と共に過ごすこの一分一秒が、来世晴れて結婚し睦まじい夫婦の食卓を囲む
その日まで二度とやっては来ないことを。断じてそうでなかったら、二人は永遠に邪淫という地獄の冬に閉
ざされることも・・・。
 愛しい時間よ、止まれ!・・・
 諄也はタイムアップ後の自らの理性に微かな揺らぎを覚えるのだった。

 そんなこととは露知らず、まり慧はカチンコチンに畏まって座っていたが、内心は泣きたいほどの後悔を味わ
っていた。
 どうして来たのかしら・・・ノコノコと!
 まさか一文無しの食い詰めた死にぞこない女を、名士が出入りするような料亭に誘うとは思いも寄らなかった。
 ブルジョアジーの退屈しのぎの座興?・・・だとしたら許せないわ! 
 法華経みたいに難信難解な諄也の行動。戸惑いからくる苛立ちが怒りにまでエスカレートしそうなまり慧だっ
た。その諄也といえば如何にもお馴染みらしく、料理を運んでくる仲居と笑いながら軽口をたたいている。まり慧
の緊張を和らげる効果を狙ったのだが、図に乗った仲居がつい出過ぎた詮索を始めた。
「お連れの女性は喜山さんとどういうご関係です?」
「ん?この人かい?・・・僕が若いときに世話になった人の娘さんだ。・・杉原さんという人でね、最近亡くなられた
そうだ。頭のいい、なかなか弁の立つ人だったな・・・」
 とぼけた諄也に仲居はその先があるのだろうと言わんばかりの好奇な目で促したが、無視してまり慧と台風の
進路のことを喋り出した。仲居は盆から鮮やかな霜降り肉が豪勢に乗った大皿をガチャッと音を立てて置くと、ぷ
いと立ち上がった。
「ああ、君、用事があるときはこちらから声を掛けるから・・・頼むよ」
「わかりました!」
 仲居はいかにもふてくされてぶすっと結んだ、グロスでぎらついた唇をにゃっと太太しく歪めると、襖を閉めた。
 諄也の顔にすっと翳りが走って、消えた。

 鍋はしゃぶしゃぶだった。まり慧は作法を知らない。家で何度か真似事はしたが外で食べたことはなかっ
た。察した諄也が万事やり、手本を示すように先に食べ出した。
 まり慧は箸を持ったまま、もじもじぐずぐず躊躇していた。こだわりもあったが、会ったばかりの男の前で食べ
るのはたまらなく気恥ずかしかった。
「食べないの?・・・腹が空いているだろう?」
「・・・いいえ」
 と箸を置き掛けたとき、くぅーんと腹の虫が正直に鳴った。まり慧は真っ赤になった。
 諄也は眉を顰めて箸を止めると、まり慧のグラスをちらっと見ながら自分のグラスにウーロン茶を注ぎ足
した。・・・・・と、
「プッ、ブーッ!」
 明らかにオナラと分かる憎めない音が間の抜けたリズムで高く低く大きく放たれた。
 それでもまり慧はいくらなんでも諄也のお尻から発したものだとは信じられない面持ちだ。
 半信半疑のまり慧にこれでもかいと首をめぐらして自分の周りを嗅ぎまわって見せると、
「臭いな・・・」
 いかにも臭うといったように諄也は鼻に皺を寄せると、肉を摘み上げて鍋の中に何回かくぐらせまり慧の
胡麻だれの鉢に入れてやった。白菜だの椎茸だのしらたきも豆腐もぽん酢の鉢に放り込んだ。「へへへ
・・・」と照れ笑いをしながら、
「うまいぞ、食べろよ」
 諄也は少しも屈託がなかった。
 結局二人は肉も野菜もお代わりし、諄也は最後まで雛に食べ物を与える、甲斐甲斐しいが自分もよく食
べる親鳥に徹したものだ。贅沢な松阪牛を阿吽の呼吸で堪能した男と女は、いつしか気心の知れた情愛
を感じあう間柄になっていた。

 コーヒーと果物が出されたとき、かなりの時刻になっていた。諄也は仲居に閉店時間を確かめた。今十
時で、あと小一時間はあった。
「君、子供はいるの?」
 不意に諄也のムードが変わった。そう、まり慧は思った。二人の身分の隔たりを意識させるニュアンスを
少なからず感じ取ったのだ。
「えっ?・・・いいえ・・・いません」
「そう。僕は男が一人いるんだ、市内の大学に通っている。毎日路上ライブにうつつをぬかしているんだけ
ど・・・台風がこの調子じゃ今日も梅田あたりでやっているんじゃないかな、しょうがない奴だ・・・」
 諄也の大きな目が線になって笑った。子煩悩が丸出しになる男だった。トロけるような笑みが張り付いた
ままコーヒーカップを手にし口に運ぼうとしたとき、カップからコーヒー液が滴りネクタイを汚した。見ると受け
皿に液が溜まっていた。仲居が運ぶときにこぼしたのだろう。諄也は慌ててネクタイを外した。
「家内が誕生日に贈ってくれた物でね・・・染みをつくるとうるさいんだ・・・」
 困った顔をしながらも妻の愛情にまんざらでもない様子がありありだ。
 ごく平凡な親バカオヤジ、カカアにぞっこんのオノロケ亭主は、さきほどの諄也とは似ても似つかぬアット
ホームな男だった。
 まり慧は一気に芽生えたばかりのほのかな慕情が萎えていくのを覚えながら、手付かずの自分のおしぼ
りで染みを拭こうとネクタイに手を伸ばした。
「インポートのビリドゥーエだぜ!君なんかは知らないだろうが・・・国産じゃないんだ」
「!・・・・・」
 顔色を失ったまり慧の気持ちなど忖度するそぶりもなく、ネクタイを掴むと諄也はそそくさと染み抜きに洗面
所へ立った。
 ケチくさいブルジョア根性を露呈した男がいなくなったあとは言葉にならないほどの嫌悪感が漂い、恩着
せがましく食べさせられた高級肉がまり慧の胃の中で激しくむかついた。

 男の本性を知った以上このホテルにいる意味も義理もないとまり慧は思った。部屋に帰って荷物をまとめ
出て行こうと立ち上がった、そこに諄也が戻って来た。
「どこに行くんだい?・・・トイレかい?」
「いいえ・・・」
「・・まだ、話があるんだ・・・」
「・・・話って、なにが!」
「・・・まあ、座りなさい」
 抗えないほどの深くやさしいぬくもりに溢れた、あの親鳥のアワレな眼差し・・・舶来のネクタイでキレた薄
べったい自己チュウの諄也ではなかった。まり慧は翻弄されていることに怒りを感じながらも諄也の言葉に
従った。そんな自分にいっそう腹が立ったが・・・。

「喜山さんは・・・多重人格なんですか?」
「さっきのことかい?・・・僕のあるがままの姿なんだ・・・わかってくれ・・」
「わたしには・・・到底理解できません。・・・わかるのは、わたしがこんな境涯だから何を言われても尻尾を
振ってついて行くと喜山さんが思っているらしいということ―――」
「違う!・・・そうじゃない。・・・僕は自分の家庭に正直でありたいし、おまえにも正直でなければと思ってい
る。何事も正直であればこそ、御本尊様の御加護があることはおまえだって―――」
「おまえって!・・・わたし、喜山さんからそんな呼ばれ方をされる覚えはありません!・・・ここ数日あなた
の援助を受けていますが・・・」
 まり慧は今まで借りた分全額を目の前の男に叩きつけてやりたい衝動がつきあげた。悲しいかな一文
無しの我が身にはどうすることもできない。無念でもこれまでの礼を言って男から一刻も早く去ることが一
番潔いと思われた。
「わたし・・・今晩ホテルを出て行きます。・・・ご親切にありがとうございました」
「・・行くあてはあるのかい?」
「・・・喜山さんには関係ありません。・・・自分の身の処し方ぐらいは―――」
「まり慧!・・・」
「?!・・・・・」 
「・・・おまえは・・・おれのものだ・・・」
「!・・・・・」
「・・・おれについて来るんだ・・・」
「!・・・・・」
「・・まり慧、わかったかい?」
「・・・わたしのこと、まり慧まり慧と呼ばないで!・・・わたしが喜山さんのもの?、奥さんも子どももいる
あなたについて行く?・・・喜山さんの言っていること、わたしにはさっぱりわかりません!・・・どういうこ
とですか?!」
「・・・おれたちは愛しあっているんだ」
「おれたちって・・・会って二三日で?!」
「二人はね、まり慧・・・会えば必ず愛しあう宿命なんだ」
「そんなこと信じられない・・・強引すぎる!・・・喜山さんは無茶苦茶だわ!」
「おれが強引なのも無茶なのもわかっている。だが、おまえも段々とわかってくる、二人の因縁が・・・」
「因縁て?!・・・・・。不倫の相手ならもっと若い素適な女性が他にもいるでしょう?!・・・わたしみたいなくた
びれたミジメなオバサンをからかわなくても!―――悪ふざけは止めてください!」
 言葉とは裏腹に純な小娘のようにまり慧の目から涙がいっぱい溢れてくる。唇が激しく震えた。会った
ばかりの喜山諄也という男にどうしてこんなにも自分をさらけ出してしまうのか。一分の打算も防御もな
く、ややもすれば我が身を捨てて己をぶつけてしまいそうになる今の心が不思議だった。
 訳の分からないままに、まり慧は諄也との将来に至福と破滅の両極を予感した。

「・・・おまえを愛している。初めて会った時からずっと・・・。―――おれのものだ、まり慧・・・」
 悠久の光に浮かび上がる中国の山河を背に諄也は呟いた。諄也の眼差しは潤むほどの愛情が漲って
いた。
 この人の目、《おれのものだ》という言葉・・・どこかで?・・・どこだったかしら?・・・なんだか覚えがある
・・・遠い太古の昔に・・・・・

 まり慧のおぼろげに戻りかけた愛の家路を遮断したのは店主の閉店を告げる非情の声だった。
「おっ、もうそんな時間か・・・。忘れるところだった、家内に電話を入れとかないと・・・」
 諄也はのっぺりとやさしい顔付きで携帯にしゃべり出した。5分程話してから、
「先に部屋に帰りなさい。長くなるから・・・」
 席を立つまり慧を目で追いながら、諄也は辛うじて崩れそうになる己の理性を持ちこたえるのだった。
 まり慧はそんな諄也の心のうちなど知る由もない。
 何故、わたしみたいな女を?・・・
 この不可解がまり慧をずっと虜にしていた・・・。

 それから一週間後、まり慧は割り切れない思いをいっぱい抱えて諄也の用意してくれた新しい住居に
移った。―――諄也の愛が御本尊様の護りだと、それだけは信じて・・・・・。




                              




 (五)
 市内にあるそのニュータウンは淀川の河口近くに位置し、かつては広大な工場敷地跡だった。宅地に造
成されたとはいえ、今でも基準値以上の有害物質が検出される物騒なトラブルも起きた。 
 淀川の川風が高中層住宅の林立する間を吹き抜け、銀杏の街路樹や大小幾つもある公園に植えられた
時期折々の美しい花や葉をやさしくなびかせ、時には激しく揺さぶった。春には其処此処の桜の大木の下で
人々が賑わい、花吹雪が華麗に舞う頃になると、粋な石畳に舗装された沿道沿いに白、紅、ピンクのツツジ
が三色繚乱と匂い立った。初夏にはくちなしの白い花が豊潤な女の情熱を代弁し、秋にはきんもくせいの芳
しい甘酸っぱい香が道行く人の忘れかけた恋慕を切なくかきたてた。冬になれば寒気に逆らって慎ましく咲
く山茶花が殊勝ないじらしさをふりまき、そのアワレさに凍てつく顔も思わず緩んだ。

 まり慧の棟は小学校の真向かいで、銀行や郵便局、スーパーや飲食店が密集した一角の外れにあった。
このあたりは地価が高く、最新の設備を備えたせいもあって部屋代も2LDKで十五万を下らないべらぼうさ
だった。で、空き家も結構あったわけだ。十四階建ての十三階、ポーチのある左端の部屋に【杉原】の表札
があがった。
 東向きのその場所からタウンの街並みがほぼ見下ろせたが、まり慧は足のすくむ思いをしただけで期待の
景観はなかった。むしろ樹木のてっぺんよりちょっと上あたりの五六階の方が、フローラルタウンの名称を裏
切らない眺めを満喫出来ることに気づいた。生憎どの部屋もふさがってはいたが。
 西側ベランダの見晴らしは胸のすくパノラマだった。前方を遮る高い建物がない昔からの街並みが細々と
拡がり、その先には淀川が流れ、新伝法大橋の向こうには湾岸道路、その先には茫洋とした穏やかな難波
の海大阪湾が望めた。

 諄也とまり慧はあれっきり会っていなかった。それでも週に二三回の写真付きメール、一回の電話のやり
とりが二人の関係を日に日に濃く密なものに築きつつあった。実際諄也は微に入り細をうがつ生活の指示を
まり慧に与えていた。―――ドア窓サッシのロック、ガス電気水漏れに細心の注意を払う、相手を必ず確かめ
てからロックを外す、役所の届け出は早めにきちっとしておく等々だ・・・女の、それも都会の一人暮らしは初
めてのまり慧を心配しての夫なら当たり前の気配りだった。・・・夫?―――まり慧は諄也が指一本触れては
いけない逆に触れさせてもいけない、が、心底溺愛の新妻なのだ。・・・第三者から見ればプラトニックな不倫
に違いなくとも・・・それを不倫と言えばだが。

 一方、まり慧に募る不可解混乱は察してあまりある。いくら我が身に色をそそる魅力がないとは知ってい
ても、諄也が何もしようとしないことに怒りが湧いて来るのだ・・・女であることのプライドを傷つけられたとい
うか、女であることの執着というか・・・誘って来たら来たでひじ鉄砲を食らわすのだが。
 諄也の愛は無償ではない。まり慧の愛を求め貞操を固く誓わせている。身も心も諄也の束縛を受けている
のだ。が諄也は?―――またもまり慧の心は疑心暗鬼に陥る。ブルジョアの性質の悪い偽善か?倦怠期の
夫婦関係を刺激する為のいまどき珍しい純情女を弄んだ精神ゲーム?ではないかと。しかし、そんな暗雲を
吹き飛ばす諄也との至福の日々だった。生まれて初めて、否この世に生を受けたときからずっと無意識に探
し求めていたのだ、この幸福を、諄也もまり慧も・・・ひたすら真実の愛欲を。
 仏様が叶えてくれたんだ、わたしたちの願いを・・・!
 御本尊様との感応によって、次第にまり慧も諄也と同じ悟りを共有できる境涯になって行った。


 二週間が慌ただしく過ぎた。御本尊様を迎え新居も一応の落着きを見せた霜月のかかり、まり慧はポーチ
に出て念願のガーデニングにいそしんでいた。これまで機会がなかっただけで家や庭をいじるのが元来好き
な女だった。いや機会はあったのだ。が、誰もまり慧が美しい観葉植物を愛し、可愛いインテリアグッズに少
女のときめきを覚える女だとは理解しなかった。小さい時からまり慧に向けられた周りの無知な悪意は、不幸
なことにこの女の生来の豊かな感受性を全く異質なものに歪めて受け取り、その発露すら拒絶した。まり慧は
長い間自己の感性を表現する自信を喪失せねばならなかった。
 諄也がまり慧を目覚めさせたのはなにも愛欲だけではない。迸る感性を表現する勇気を、喜びを、手段をも
次第に目覚めさせて行く。諄也の愛は幼い時から自分の本質とはほど遠いレッテルを貼られてもがき苦しんで
いたまり慧の殻をたたき壊し、卑屈に萎縮し弱ったいのちに本来の耀きを取り戻させようとする蘇生の原動力と
なった。まり慧は御本尊様と感応し境地冥合して一体となった諄也の愛の光に導かれて、淵のような地獄の汚
泥を一寸一寸成仏という地上に向かって開花する、蓮の如き己の運命に少しずつ目覚めつつあったのだ。

 過去世に決して現れることのなかった諄也とまり慧の――玄宗と楊貴妃の、秀吉と淀殿の――そして二人の
生まれ変わりが織りなす因縁の真実が今生こそ御本尊様の大慈悲によって顕現できるという、とてつもない大
確信に二人が一歩一歩近づいていることを当の諄也とまり慧はまだ知らない・・・。

「おまえとおまえはこっち・・・小さいあんたは三番目・・・いい?番兵さん、わたしのお城をしっかり守って頂
戴!」
 まり慧は戸口の脇に一尺余りのテラコッタの人形を並べながら、褐色の小人の青い目に上機嫌で語りか
けた。他にも滑稽な仕草のミニ小人が植木の陰から、椅子のすき間から、プランターの縁から可愛い姿を
覗かせている。ポーチの住人は小人だけではなかった。カラフルな子供服を着た2匹のうさぎもいたし、犬
も小鳥もモグラも案山子も蛙も亀も・・・・・この一月足らずでまり慧のガーデンは植物とアクセサリーで見る
見るにぎやかになった。一坪半程の殺風景なポーチは、この女の唯一の癒しゾーンに様変わりした。

 風呂場の窓からホースを引いて植木に水撒きをした後、まり慧は手袋をしてビニール袋を片手に割り箸を
握った。アブラムシとナメクジ退治が毎朝の憂鬱な日課だ。
「あんたは何の生まれ変わり?・・・どんな罪を犯してこんな嫌がられる虫になっちまったの?」
 まり慧はポトスの鉢から2cmほどのナメクジをつまみあげた。それは怯えて半分にも丸まった。一寸の虫
にも感情があるようだ。
「あんたの前世は・・・国益も国民の為も忘れて血税を貪り権勢欲にアップアップした政治家?・・・それとも
人を人とも思わぬ医療で患者を泣かせた医者か看護師?・・・それか戦争マニアの狂った国家元首?・・・
ひょっとして純信な信者を騙して名門名利の亡者となったエセ宗教家じゃないの?―――成仏して来世こそ
まっとうな人間になるのよ・・・」
 まり慧は小声で題目を唱えながらナメクジを袋に放り込んだ。袋は焼却炉行きだ。害虫といえどもイヤな
気分だった。 
 次はアブラムシ。まり慧はヘデラの葉の裏を見た。黒点が昨日よりもっとびっしりひしめいて、顔を近づける
と一つ一つが確かに虫だ。少し動いているのもいる。まり慧は鳥肌が立った。
「あんたたちはもしかして権力という陰剣をちらつかせて弱い者いじめをした公職者の生まれ変わり?・・・
それとも暴力を爆発させて無力な人間を阿鼻地獄に突き落とした卑劣な人たちだったの?―――人を虫け
らに扱えば因果応報、今度は自分が虫になってしまうのよ・・・・・」
 まり慧はマスクの中で題目を唱えながら殺虫剤のスプレーを噴射した。薬は微毒でも体力のない女には
有機溶剤がきつい。たいてい暫くして、頭痛や吐き気に見舞われた。




                              




 (六)
 人の気配がして、まり慧は門扉を見た。黒髪がよく似合う色白の美しい娘が立っていた。娘の手には白
のポメラニアンがちょこんと抱かれている。
「・・・・・?」
「・・おばさん、何ぶつぶつ言ってるの、草を相手に?」
 小粒の歯を見せて笑う娘の笑顔から、少女のあどけなさがふんだんにこぼれた。剃りを入れていない自
然な眉が初々しい。 
「草?・・・ああ、いえ―――。隣の娘さん?」
「そう・・・桧川紗李・・・」
 見目形は古きよき時代の花恥らう可憐な大和乙女だったが、口を開けば短語、今風の波は避けきれな
かったらしい。
「桧川紗李さん・・・杉原まり慧です、よろしく」
「・・・・・」
 娘は黙ってペコッとお辞儀をした。小犬はキョトンとしている。
「・・学生さんよね?・・・今日は学校、お休みなの?」
 <学校>の言葉に娘の顔が暗く反応した。
 登校拒否・・かな・・・? 
「・・・六年の時に・・・縁切ったの・・・学校と・・・」
 まり慧の察しは<やっぱり>になった。
「・・・・・」
「・・・驚いたでしょう?」
「・・・いいえ―――おばちゃんも登校拒否だったから・・・」
 娘に十七八の無邪気な笑顔が戻った。同類の安堵感か・・・。
「ふーん・・・同じ穴のムカデやね・・・うふふふ」
「・・・ムジナ・・だと思うけど・・・」
「・・あっ、そうか・・・結構、物知り・・・。―――おばさんて・・・お妾さん?」
「えっ?!・・・・・。―――失礼でしょう、あなた!」
 娘のあっけらかんの問いについて行けなくてワンツーテンポも遅れたまり慧だが、やっと娘に抗議できた。
少々語気が激しくなったきらいはあったが・・・。
「じゃ、違うんだ・・・ゴメン。―――おばさんて・・・結構キレルんだ」
「キレテ当然でしょう!」
 今度はすぐ返球できた。
「援交がこれだけ巷に溢れてんだもん、疑っても仕方ないわ。・・おばさん、働いていないみたいだし、夫も
みかけないし、未亡人と言うにはちょっと若さも色気もムンムンだし・・・・・」 
 娘は一向悪びれた様子もなくずけずけと物言って来る。
「・・親の遺産で暮らしているケースだって考えられるでしょ!・・・」
 まり慧もムキになって反論した。娘の言っていることが事実であったからよけいだ。だが真実ではない。
「おばさんはそんな風に見えない。身なりがメッチャ苦しそうだもん。ここに住めるっていう雰囲気じゃない
みたい・・・」
「!・・・・・」
 まり慧は言葉を失った。怒気があらわに出たのだろう・・・。
「わたし・・・悪いこと言ったのかな・・・」
「・・・おばちゃんはね、質素なライフスタイルに共感しているのよ・・わたしのイデオロギーなの・・・目下の
ところはね」
 小娘なんぞに言い負かされたくはなかった。何とか屁理屈をこねて言い返したものの、自身がこんなに
利かぬ気だったなんて・・・まり慧は意外な自分を見つめながら喋っていた。・・・例の思いがまた心をよぎ
る。
 諄也さんに会うまでは・・・こうではなかった・・・・・
「ふーん、そうなんだ・・・」
 娘はあっさりすんなり折れた。まり慧の言葉を信じたのか、、そういうことにしてあげるつもりで納得したの
か、あるいは半々だったのか分からない。が言葉ほどきつくない、ほんとは心根の優しい娘だというインパ
クトをまり慧の本能は感じた。
 
 娘は抱いていた犬を門越しにひょいと差し出した。
「抱く?・・・人見知りするけど」
 まり慧は素直に受け取った。毛むくじゃらの、ライオンをちっちゃく可愛くしたような小犬はころっと太って、
まり慧の腕の中でむずかるように暴れた。
「飼い主でないとだめみたい・・・あなたの赤ちゃんみたいね」
 まり慧は可愛げのない犬を内心小憎く思いながら、うんざりの嫌気をやさしい笑いでカモフラージュしてポ
メを返した。・・・と、娘の門越しに伸ばされた腕を見てあっと思い、その端正な顔を間近に見て愕然となった。
 セーターの袖を肘まで捲り上げた娘の白い腕には、生っぽい血のカサブタがついた切り傷が定規でつけ
たように幾筋も並んでおり、所々ミミズ状のケロイドも混じって、クレーターみたいな古傷も合わせれば数え
られないくらいの惨い傷があった。若い娘にはあまりにも痛々すぎる肌だった。女の命である顔にも手こそ
酷くはないが口元にいくつかの薄い傷跡が残っている・・・。
 
「どうしたの、この傷?!」
「・・・焼きを入れたのよ・・・」
「焼き?!・・・」
「・・・・・」
 娘は急に黙り込んで喋らなくなった。「じゃ、また」と無愛想なふくれっ面で去ろうとした娘の、いったん外
された暗い視線が再びまり慧に固定した。
「・・・おばさん、なんで泣いてるの?」
「えっ?ああ・・・なんだか・・・辛くって・・・」
「他人事じゃない・・・ヘンなオバサン」
「・・・・・。なんか、可哀想な人見たら直悲しくなるの・・・」
「・・・カワイソウじゃない!・・・自分の醜さが許せないだけよ・・・」
「醜いって、どうして?・・・そんなに綺麗じゃないの・・・・・」
 まり慧は子供の頃桃の節句に飾った、鼻筋の通った美しい切れ長の内裏雛を思い出した。娘はその面
影によく似ていた。
「・・世間はそうは思わない・・・」
「世間て・・・誰のこと?」
「どうでもいいの、そんなことは!―――ねっ、おばさんち・・番兵がいるんでしょう?」
「・・・聞いていたの?」
「わたし、おばさんの独り芝居の唯一人の観客ってわけ」
 まり慧はほのかに苦笑いを含ませながら、娘をポーチに招きいれた。

「ステキなお庭.・・・。これ、そこの100えんショップのでしょ?・・でもカワイイ・・・」
 まり慧はミニ小人の値段をあからさまに出されてちょっとムカついた。で、戸口の人形は先手を打った、
「ウチの番兵よ・・・近くのホームセンターで買った500円のテラコッタだけど・・・」
「あそこにあったかな、こんなの・・・?でもチビのくせにごつい顔してイバリくさっているのが如何にも兵隊
ラシイわ。―――おばさんのお城を護っているの?」
「そう・・・・・」
「・・・女城主ってとこよね・・・うふふ、淀君みたい・・・」
 女城主・・・・・淀君・・・・・
 まり慧の中で何かがひっかかった―――長い間心の奥底に眠り続けていた、遠い遠い過去世に刻まれ
た我がいのちの記憶・・・。諄也という愛の縁に触れ、妙法の不可思議な力によって眠れる記憶は今おぼ
ろげにだが、漸く覚醒を始めた・・・。
「・・でも、おばさんは淀君のイメージにほど遠いわね―――清潔な感じだもん」
「・・淀君のイメージ・・・?」
「淫らで驕慢で思慮のない浅はかな妾・・・豊臣を滅ぼし、最後は家康に命乞いした恥知らずな女よ――歴
史の常識なのに・・・」
「違う!・・真実じゃないわ!」
「真実?・・・・・」
「・・いえ・・・そんな気がするの。・・・淀殿は純真な女よ、夫を守り子供を護り抜いたわ。最後は天守閣で秀
頼とともに潔く果てたのよ、忠臣たちと一緒に・・・」
 まり慧は己のいのちに感ずるままに一気に喋った。・・・長い間の怨念を一気に晴らすみたいに。無論その
意識はなかったが・・・。
「天守閣?・・・たしか、曲輪にある櫓で自害したんじゃない、徳川勢にせかされて・・・本にはそう書いてあっ
たもの」
「・・・徳川の捏造よ、豊臣を永劫辱しめるための・・・」
「・・・・・。でも千姫を脱出させて命乞いしたじゃない?」
「・・・助命の嘆願は徳川方の粉飾に決まっているわ。・・・千姫は淀殿にとって姪でもあるし、自身も父母の
落城のとき落ち延びた経験があって、それで千姫に情をかけたのよ、みすみす生きれる者を死出の道連れ
には忍びないと・・・」
「じゃ、どうして千姫は夫と姑の真実を周囲に訴えなかったの?・・・違う男と結婚までして・・・」
「当時は徳川の世一色にする為に豊臣を徹底して払拭しようとしていた。千姫は家康の孫だからよけいに何
も言えなかったんじゃないかしら・・・周囲もうまく丸め込んだろうし。―――全ては・・・おばちゃんの憶測だけ
ど・・・」
 憶測?・・・ほんとにそうだろうか・・・あの人に出会うまでさしたる関心もなかった豊臣のことにどうしてこ
んなにもムキになるのかしら・・・不思議だわ、淀殿がわが事のような気がする・・・・・諄也さんが言う二人
の因縁て、もしかして―――!!
 あまりにも大それた突拍子もない考えだとまり慧は思った。心中自嘲もした。が、なぜか拘泥してしまう・・・
自身が淀殿の生まれ変わりだという驚天動地の思いつき?に。・・・もしそうであるなら、諄也は―――
 あの人は・・秀吉!・・・・・
 まり慧のいのちはわれしらず震えた・・・。

「・・恩知らずね、千姫って・・・殺されても言うべきよね、真実を・・・」
「・・・あなた、歴史にとっても興味があるのね・・・」
「全然!・・・たまたま読んだ本に出てきた秀頼に興味を持っただけ。―――おばさんは淀殿の生まれ変わり
みたいね」
「・・・あなたこそ千姫の生まれ変わりかな?―――秀頼のどこに興味をもったの?」
 と訊ねているまり慧自身が秀頼の名を口にする度に、目頭が熱くなるほどの懐かしい情愛を覚えるのだ。
これは一体どうしたことか・・・。
「・・玉のように美しい、身も心も生まれついての貴公子・・・しなやかな、華麗にひらひら舞う蝶のような身の
こなし・・・頭のグンバツが滲み出る機智に溢れた軽快なお喋り・・・文武両芸に秀で過ぎた悲劇の天下人
っていうイメージかな。きっとカルチャーショックを感じるほどわたしと違いすぎる男なんだ。・・・わたしが求
める永遠の美男・・・わたしも秀頼にふさわしい美女になりたい!・・・でもね―――」
「・・・なんなの?」
「本に書かれてあることがヤッパ本当なんだ・・・弱虫のマザコンだったとか、鍛えていなかったからぶくぶく
太っていたとか、女遊びに溺れていたとか―――決定打はなんたって負け犬秀頼のミジメな命乞い・・・」
「・・・あなたのいのちに感じている秀頼を信じ抜くべきだわ。・・・それが真実だと思う・・・おばちゃん、絶対そ
う信じる。―――秀頼とあなた・・・きっと深い因縁があるのよね」
「・・・おばさんて不思議だね・・・言葉が深いところにびんびん染みてくるみたい。・・よくわからないけど、誰も
知らないわたしのなにかをおばさんは感じてるんじゃない?・・・」
「・・そうかしら・・・・・?―――ところであなた、お母さんもお勤めなの?」
「両親ともプログラマー・・・早朝出勤深夜帰宅・・・土日以外はベッドで親の顔を見てる」
「・・一日中一人じゃ退屈ね・・・よかったら、これから朝食一緒にどう?」
「ご飯作るのも食べるのもめんどくさかったんだ。―――ランも一緒にあつかましく、おじゃまムシ」
「どうぞ・・・ランちゃんもね。―――ホント、おじゃまだ、犬、ど・・・」
 箸が転んでも笑う年頃の娘は、中年女の気の抜けたレスカみたいな駄洒落にも高いトーンで笑い転げた。
何処にでも見かける普通の明るく弾けた早乙女だった。生々しい傷とのコントラストが尚更まり慧の胸を衝
く。思い出したくもない傷心の青い時代の自分が、目の前の自傷癖の娘と自然にダブった。輝きとは程遠いミ
ジメな悔恨に満ちた、まり慧の暗き青春―――その嘆きが内なる菩薩の叫びを熱く呼び起こした・・・。
 この娘が今の苦しみを乗り越えてきらめく青春を謳歌できたらどんなに素晴らしいだろう・・・どんなにか満
ち足りた幸福が訪れるだろうに―――紗李さん、最後まであきらめないで!・・・精一杯耀ける日が来ること
を信じるのよ!・・・わたしの二の舞になっちゃだめ・・・あなたの苦しみをわかってくれる人は必ず現れるわ。
わたしだって・・・諄也さんにめぐり逢えたんだから・・・・・。―――仏様、どうか紗李さんを救ってください!
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・

 その晩まり慧は諄也にメールを打った。月曜日と金曜日の午後九時がメールの定刻、電話は水曜日の午
後九時だった。曜日と時間は諄也が指定した。ちょうどその時刻にオフィスを出るのだろう。回数が少ないの
はお互いの理性を持続する為だと、聞きはしなかったがまり慧はそう呑込んでいた。
     
     今晩は。今日とっても不思議な出会いがありました。相手は・・・千姫の生まれ変わ
     り?の可愛い女の子。・・・辛い傷を一杯抱えてるみたいなんだけど。(・・・助けて
     あげたい!)
     その子と話していてわたし、魂が震えるほどの体験をしたわ。・・・因縁があるのかしら?          
     あなたと出会って・・じゃない・・再会かしら、前世以来の・・・?今までのわたしじゃない
     わたしがまるでビックリ箱みたいにアレヨアレヨと飛び出してくるの・・・。どうして?・・・
     新、旧どっちのわたしが本物?―――諄也さんはわたしをそんなにリニューアルさせた
     いの?
     追伸・・・うちの城兵は大小十名、そのうちの最強の男前を紹介します。・・・よろしく!

 まり慧はテラコッタの写真を添付してメールを送った。5分程してFANTA MEMORYのジーンと甘い着信音
がスローに切っぽく流れてきた。・・・まり慧の愛の扉を叩く諄也のメロディーだ。

     ピュアな夜だよ、今夜は。・・・ちょっと冷えるけど(年だな・・・)おまえも冷やさない
     ように・・・            
     近所の子かい?・・・苦しんでいるようだね。勇気を出して、南無妙法蓮華経を教え
     てあげなさい。・・・おまえ流で。(手紙を書くといいよ。おまえの文は、うん、結構心
     を感じる!)
     ソクラテスの名言を知ってるかい?<汝自身を知れ――人はまず自分自身を知ら
     なくては真理を知ることもできない>・・・おれたちはね、まり慧、仏様という正境に
     縁しているから凡夫には見えない物事の真実がいのちに見えてくるんだ。真実を
     顕すことは絶対的に大切だよ、自分のことにしたって、他人のことにしたって。・・・
     あらゆる物事を正しい方向に進めて行くキーワードだからね。            
     来週からパソコンの学校が始まるんだろ?目標の資格が取れるようにがんばりなさ
     い。合間に図書館へ行くといい。おまえは文を書くことに興味があるみたいだから、
     基本から(文法とかボキャブラリーだ)よく勉強しなさい。
     明後日だね、大石寺へのお参りは。有難い御登山だからしっかり勤行して備えるん
     だよ。・・・いつものことだが戸締り、火元、水漏れは十分注意しなさい。(このことは
     今月でもう言わない。耳ダコなんてうまくないもんナ・・・白けたかい?)
     追伸・・・今日は説教じみた内容になったから師匠の顔で行くよ、うん!―――おまえ
     をトコトン愛してる。・・・・・おれのちゃーちゃへ。
        
 まり慧はくすぐられているような、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、艶やかな目で携帯のディス
プレイの文字を追った・・・・・最後の<おれのちゃーちゃへ>に来て思わず赤らんだ。いくら熱愛の相手で
も白髪の混ざった中年女にじゃ、歯も目も浮くような愛称には違いない。
 諄也さんたら<ちゃーちゃ>なんて!・・・・・ちゃーちゃ?・・・ちゃちゃ・・・茶々―――淀殿!!
 それでもまり慧は半信半疑だった。一刻も早く諄也に会って確かめたい・・・添付ファイルをクリックした。
 千両役者の軽く上を行く、師になりきった諄也の、弟子への愛情が画面からはちきれんばかりの顔が少
しずつ現れていった。




                               




 (七)
 一両日降り続いた雨も夜中には上がり、その日、まり慧は宇宙を実感しそうな澄みわたった碧落を不思議
な歓喜で見上げた。
 待ち合わせ場所は新大阪駅の待合室、時間は7時半、まり慧は最寄りの駅に急いだ。銀杏がもてなして
くれた黄色い落ち葉の敷物を踏みしめ、客待ちしているタクシーの今日の佳き日を祝う喜色満面の愛想顔
に見送られた。すれ違う人の無関心という衣でコーティングしている視線の内にも、御本仏様の許へ参じる
まり慧への熱き羨望と、叶いがたきを成就した賞賛のまなざしを見い出すことができた。雀の囀りすら、まり
慧が三悪三道から解き放たれることを畜生なりに喜んでくれているように聞こえるのだ。まり慧が出会う法
界の有情無情のものがこぞって、たとえ無意識でも、まり慧が大御本尊様にお目通りすることをいのちの底
から祝福してくれているように感じてならない。・・・・・生まれて初めての不可思議な信仰体験だった。
 ・・・嬉しや悲し・・おもしろおかし・・憎し辛しの六道輪廻を繰り返してきた、走馬灯のようなわがいのち・・・
うたかたの切なる仕合せに片時酔いしれるわが胸をしめつけ切り刻み、愛も夢も血の涙も枯れさせるもの悲
しい哀歌をこのいのちは何度聞いてきたことか・・・・・煩悩の塵に覆われた暗黒の境地を彷徨ってきた魂は
―――今生こそ救われる!・・わたしのいのちにまとわり絡み積もった、煩悩が犯した罪障の垢は尽く剥が
れ落ち、この上もなく安穏で、安楽で、清浄な仏のいのちに蘇生できる!・・・仏様をどこまでも信じ抜けば
・・・・・必ず!
 過去、現世、来世と永遠に続く生命の存在を・・・御本尊様の絶対なる救済を―――まり慧はこのとき確か
に信じた。

 待合室はウィークデーの朝だというのに晩秋の行楽客だろう、色とりどりのボストンを足許に置いた年配
の男女でごった返していた。旗を手にしたキムタクもどきの若い男が客の間を無愛想に走り回っている。北
陸か東北あたりに向かうツアー客だろうか。
 まり慧はお寺で顔見知りの古澤那美江を探した。団体客の周りを緊張気味に5、6分ウロウロしてから、漸
く那美江の方で気づいてくれた。まり慧はほっと歯を見せて、手を振っている那美江に近づいていった。
 
 まり慧たちは8時発の東京行きこだまに乗った。
「・・新富士に着くのは10時54分で、それから大石寺までバスで小一時間・・・御開扉が1時半だから十分
間に合うわ」
 先輩の貫禄を匂わせて那美江は云った。
 初登山で右も左も分からないまり慧はただ頷くしかなかった。
 那美江とは、お寺の掃除や座談会で顔を合わせば二言三言交わす程度の知り合いだった。誰とでも話
せる気さくな性質らしく、まり慧が御登山してみたいと漏らすと、ちょうど私も行く予定があるからとこの日の
出発に相成った。
 
 新大阪を出て間もなくだった。
「喜山さんとはどういう知り合いなの?」
 那美江が出し抜けに聞いてきた。
 信徒の間でも人望のある喜山だ。その喜山が知り合いの方ですと紹介したまり慧にみんなの興味は津津
と集まっていたらしい。まり慧も薄々感じていた。
「・・以前、うちの父がお世話したことがあるらしいんです。・・・事情はわたしもよく知らないんですけど・・・」
 まり慧は諄也の嘘の一部をそのまま受け売りした。全部は言いたくなかった。父親がまだ健在だったから
だ。
 那美江は世話好きな人にありがちな並み以上の好奇心があるらしく、もっと話してよというオーラを顔中滲
ませて後を促す。
 まり慧は困った。ちょうど京都に着いて何人かが車両に乗り込んで来た。隣席にも男が座り、その客に気
を取られたふりをしてまり慧は口を噤んだ。
 那美江はいかにも気をそがれたといった様子でぷいと車窓の景色に見入り出す。
 成り行き上、まり慧は隣席が気になる風を暫く装うしかなかった。鬱陶しい気分で見たくもないのにチラチ
ラと横に目を走らせていると、客は持ち込んだ新聞を結構遠慮なく広げて読み出したものだから、紙面の一
部がまともにまり慧の目に飛び込んできた。

 それは某美術館が主催する催し物のかなり大きなカラー広告だった。今回の目玉作品であろう、高貴な身
なりの女性が侍女らしき少女に湯浴み後の髪を整えさせている構図の日本画が載っていた。
 女性の半透明の乳白色の顔は仏画のような柔和な気品を湛え、ブルーの薄物に包まれた円いなで肩から
なだらかにのびた肢体は指の先まで美しい曲線美を醸しだしていた。衣のしっとりした色彩が雪肌の純潔を
際立たせ、柔らかい女らしさと粋な侘びっぽさが調和したしみじみとした背景はアワレな女人の品格をいっ
そう近寄りがたいものに高めていた。素人でも格調ある美人画だとすぐわかった。まり慧もそう思った。しかし
・・・束の間の賛嘆だった。この女性にしてあるまじき薄絹をはだけさせられ、あられもなく剥き出しになった胸
を作者に見せつけられるまでの。女性の白磁の顔より白く浮き出た乳房と、その乳房をよりリアルに見せてい
る乳首の色形のあまりに生々しい卑猥さが、思わず目を背けるほどまり慧には痛々しかった。
 誰の作品かしら・・・・・?
 まり慧は気を取り直してもう一度紙面を覗いてみた。
 作者は上村松園、絵の題名は『楊貴妃』とあった。
 楊貴妃―――?!
 まり慧は無性に腹立ちを覚えた。作者にもこの絵にも・・・。たまらない侮辱感、屈辱感が湧き上がって来
る。謂れのない感情だと自分でも思ったが、以前読んだ書物のせいだろうと合点がいった。・・・少なくともこ
の時は。
 ・・・楊貴妃は玄宗を溺れさせた傾城と思われているけど、実際はそうじゃないわ。自らどうすることもでき
ない運命に弄ばれても、玄宗の妻として純愛を貫いた潔癖な女性よ。・・・あまり知られていないけど、死後
皇后にも追冊されている。そんな尊貴な女性を裸体で辱しめるなんて!・・・・・
 まり慧の謂れのない?不愉快はどうにもやりきれなくて、その客が降りてからも暫くは消えなかった。・・・
なぜか?  


 日蓮正宗の総本山大石寺は静岡県富士宮市上条に在った。もともと篤信の信徒であった地元の地頭南
条時光公が自領の大石ケ原を寄進し、正応三年十月十二日第二祖日興上人様がそこに大石寺を建立した。
以来七百十一年の星霜を経ている。

 新富士からバスで40分余り揺られると、車窓から木立に見え隠れする大石寺が垣間見えて来る。富士
の麓に展開する整備された広範な敷地といい、建物群の威風堂々とした景観といいスケールといい、想像
していたよりはるかに壮大な寺院であることにまずまり慧は驚いた。次にまり慧が震撼したのはひしひしと
心身に伝わってくる初体験の霊気だった。
 バスが本山専用のバスターミナルに着くと、総一坊にある登山センターで手続をし、まり慧たちは境内に
入った。感じていた霊気はいっそう強まり、那美江に習って三門で三唱するときには言葉を越えた感動に
涙が溢れた。どうして?と聞かれてもまり慧は答えようがない。いのちが自ずと感応して止まないのだ。

 御開扉までの一時間余り、少しハードだったが那美江に連れられて山内をあちこち回った。広布坊、大
客殿、大講堂、六壺、御影堂、五重塔とまり慧たちは参って行った。
 広大な境内には近代技法の粋を凝らした豪壮で伝統的な造りの堂宇が其処此処にその威風威光をな
びかせ、木造朱塗りの古式豊かな歴史的堂宇と相まって、寺院建築の一般教養すらないまり慧にも妙な
る調和を感じさせた。
 境内の人工がもたらす日の光と自然が生み出す日の陰の対比にも、些細なことかもしれないが、まり慧
は感興を抱いた。たとえば美しく整備された広布坊前の広布の広場、大客殿前の明るい芝生の庭園に対
して、鬱蒼と原生林に囲まれた五重塔、三師塔あたりのコントラストだ。あらゆる物事に備わる陰と陽の両
面を御仏様から説かれている、そんな大層なことではなくても、まり慧には某かの意味があるように思えて
くるのだ。

 日帰りのスケジュールで時間に余裕がなかったから仕方がないが、一回り年上の那美江の早足について
行くのは体力の衰えたまり慧には息が切れた。心中題目を唱えながら御本尊様にわが身を任せて那美江
の後を追った。 
 最後に三師塔の参拝を終え、まり慧たちは御開扉を受けに奉安堂へ向かった。ひんやりしたクリアな冷気
が爽やかで、厚く積もった落ち葉も黄葉した樹木も高い空も絶え間なしに聞こえてくる水の音も、この上なく
美しかった。
 まり慧はうっすらかいた汗をハンケチでおさえながら思った、
 大石寺の晩秋は・・・きっと富士山の晩秋そのものなんだろうな・・・・・
 まり慧は客殿の前から眺めたま近くにそびえる富士を思い出した。山の美景もまた晩秋だった。
 ・・・この先長久の歳月が過ぎても世の中がどんなに変貌を遂げても、富士山麓の春夏秋冬は御本仏様が
いらっしゃるこの大石寺に変わることなく巡ってくるのだわ・・・永遠に!・・・・・
 まり慧の内面から、永久不変な御本尊様への畏敬の念が激しく込み上げた、
 ・・・今も感じているこの霊気は、日蓮大聖人様の・・・戒壇の大御本尊様の・・・凡夫には到底計れぬ御威
光だったんだ・・・・・
 ・・・霊気から察しても御本仏様の当体であり、全ての御本尊様の根源である大御本尊様にお目通りする
功徳は―――人の想像を許さない!・・・・・
 そう考えると、まり慧は畏怖の思いを禁じえなかった。・・・・・が、そこは凡夫、億人力の頼もしさみたいな
浅はかな俗感情などもちらついて、まり慧は嬉々として御開扉に並ぶ列に加わるのだった。


 午後一時半。御僧侶方が入場し、二人の御僧侶のマイクによる先導で唱題が始まった。
 僧俗唱和する大音響の中、御法主上人猊下様がおでましになられた。

 御開扉が始まった。
 一つ目・・・二つ目・・・三つ目・・・最後の扉が開かれた。瞬間、
 大御本尊様!―――
 まり慧は突っ伏した。唯・・・歓喜、感涙しかなかった。

 方便品の題号を読まれる御法主上人猊下様の荘重な仏声が、涙を拭うまり慧の五臓六腑にしみわたって
いった。あとはもう無我夢中だった。御僧侶のマイクについてまり慧は懸命に読経し、唱題し、大御本尊様に
導かれるように祈った。
 清浄かつ荘厳な熱気の中に僧俗和合の読経唱題は終わり、御法主上人猊下様の三唱が響き渡った。
 いのちを浄化し、罪障を消滅させ、防非止悪を叶えてくれる―――いや、凡夫が云々すべきでない―――
ありがたい仏声はまり慧の生命に静かにゆっくりと染み込んでいった。
 ・・不思議だ・・・わたしの過去世の罪を感じて・・・悲しい・・・・・
 あたかも病む深い患部に特効薬を入れて、たまりにたまった悪い膿を絞り出す・・・恐らくそんなどころで
はないだろうが・・・やはり、凡夫が云々すべきではない。 

 最後に御法主上人猊下様のお言葉を拝聴して、その御開扉は終わった。

 御開扉の間、まり慧がずっと感じていた御仏智、それは・・・・・
『たとえどのようなことがあっても、諄也を信じ、どこまでも諄也について行きなさい』 
 これからのまり慧に指針となるべき、御仏様のありがたい教えだった。不安だった二人の愛を肯定されて自
信を得た。だが・・・・・
 まり慧には諄也との関係に多少とも罪悪感を持っているところがあった。肉体の契り触れ合いがなくとも妻
子ある男性と愛し合っているからだ。精神的邪淫なるものが本当に定義づけられるかどうかまり慧にはわか
らない。戒律にとらわれた小乗の迷いだという気もする。大善を忘れて、小善にこだわっているのだとも思え
る。・・・が、まり慧の心は揺らぐのだ。諄也のようになれない、己の未熟な信心を恨むしかないのか・・・。

 奉安堂を出るときのすがすがしさはたとえようがない。経験した者にしかわからぬ生命の、悦びだった。そ
れが如実に出ているまり慧の顔を見て、那美江が溜息を漏らした、
「初心の人はいいわね・・・純信だから・・・わたしもそうだった。二十年も経つとマンネリ化しちゃって・・・!お
っと失言、せっかくの功徳が消えちゃうわ・・・・・あははは」
 そういう那美江の顔も御開扉前と違って、どことなしにアクが抜け落ちて清らかに美しいとまり慧は思った。
 側溝のせせらぎを聞きながら裸木になった枝垂桜の風情を愉しみつつ、まり慧たちは塔中の石畳を降りて
いった。

 三門前の大木のところで三、四人の信徒が集まり、袋を手に何かを拾っている。さっそく那美江が近づいて
いった。まり慧も気をそそられた。
 木はイチョウで、一面に散らばっているのは銀杏の実だった。特有の匂いがまり慧の鼻をかすめた。
「杉原さん、ビニール袋持っていない?」
「・・・・・」
 まり慧は申し訳なさそうに笑った。
「・・・ある筈無いよね・・・せっかくの功徳の実やのに・・・・・」
 那美江はいかにも残念そうにしょぼくれた。
「功徳はちゃんと大御本尊様から頂いているじゃないですか」
 笑って打ち消すまり慧もなぜか惜しそうに大木の根元を見つめている。・・・凡夫の欲は尽きないのだ。
 その時、
 ・・この木!・・・側の木と繋がってる・・・・・
 そのイチョウの大木は確かに隣の大木とある部分が一体になっているように見えた。もっとも隣の大木
は葉もつけず、てっぺんを切られた、外皮を付けている丸太ん棒みたいな木ではあったが。・・それでも、
まり慧の驚きはただごとではない、
 ・・・まるで連理枝みたい―――連理枝?!
 昔覚えた『長恨歌』の断片がまり慧の脳裡を走る・・・・・
     
     ――― 長生殿
     夜半人無く――の時
     天に在りては願わくは比翼の鳥と作り
     地に在りては願わくは連理の枝と為らんと

 ・・連理枝・・・・・松園の『楊貴妃』・・・・・なにかわたしと因縁があるの?・・・淀殿みたいに・・・・・?
 新幹線のあの理に合わぬ奇妙な憤りといい、今のいのちを貫く閃光の驚き。御本尊様がなにをかを知ら
しめんとしているようにまり慧には思えてならない。・・・そのなにかとは・・・口に出すのもはばかれるほど
大それた―――諄也とまり慧の因縁に違いなかった。


 翌日の午後九時前、メールの定刻、まり慧は一文字一文字を思案しながら画面に愛を打ち込んでいった。
突然――その日はテレホンデーではなかった――エレクトリカルパレードが軽快に鳴り出した。
 月曜日なのに・・・?
 まり慧はちょっとした愛の不安を感じながら通話ボタンをクリックした、
「もしもし・・・・・」
「・・・俺だ・・・メールを打ってたのかい?」
「ええ・・どうしたの?今日は―――」
「急用でね、今、自宅に向かっているところだ。今夜はメール打てそうにないんだ」
「そう・・・わかりました。・・それじゃ・・また―――」
 まり慧の気持ちはみるみる萎れていく、見栄を張ってそっけなくとがっていく声に反比例して。いったん燃え
上がった恋情は水を差され、燻りながら出口を求めてもがいた。
「着くまで15、6分ある。話をしよう・・・時々中断するだろうけど・・・」
「・・危ないわ・・急いでいるのに・・・」
「なかなかのもんだぜ・・・俺のドライビング」
 滅相聞かない諄也の自慢も今のまり慧には頼もしかった。

「お山はどうだった?」
「凄い霊気で・・・涙が止まらなかったの」
「そうか・・・。感じやすいからな・・・おまえは・・・」
「・・御仏智を頂いたのよ」
「どんな・・・・・?」
「・・・内緒・・ふふふ」
 まり慧は素直に答えられなかった。二人の関係がおおっぴらに出来ない引け目もあるにはあったが、忍を
強いられる今の関係にも強いる諄也にもやっぱり割り切れない不満がまり慧のどこかにあった。いずれ自分
達は晴れて・・・の身勝手な愛欲がその奥底に潜んでいたことは疑いない。己を厳しく律しているはずの諄也
にも恐らくまり慧と同じものが・・・否、もっと破滅的な溺愛の欲望が理性の下で沸々とたぎっていたかもしれ
ない・・・。   

「本山で不思議な体験をしたわ・・・紗李さんの時みたいに・・・」
 まり慧は新幹線の車中の出来事やイチョウの大木のことを躊躇気味に話した。
「バカげてるでしょう?・・・思い込みのきつい女だとか妄想癖があるなんて思わない?・・・常識的にはそう
とられて仕方ないもの・・・」
「思い込みでも妄想でもないさ・・・御本尊様に導かれて過去世の因縁を悟っただけだよ―――俺だって・・・」
「えっ?!」
「・・おまえと同じことを感じてる―――」
「ホントなの!・・・」
「ああ・・本当だ・・・」
 まり慧は絶句した・・・。
 二人のいのちに感じている通りなら、諄也は歴史上燦然と耀く非凡な生命をもった男。それも尋常ではな
かったが、生まれ落ちた時から並みの扱いすらされず、ミジメな淋しい人生を送ってきたまり慧が、人の羨望
で呪い殺されても不思議じゃない寵姫の生まれ変わりだったとは・・・・・。

「・・人一倍イジメられ、バカにされてきたわたしのような女の魂が・・・そんな大それた女のいのちだとしたら
・・・・・なんだか恐ろしい気がする・・・」
「・・まり慧・・・・・。―――約束したろう?・・おまえは俺のものだ・・どこまでも俺が守って行くんだ・・・二人
の因縁が歴史を動かすものであってもそれは変わらないよ・・・不安にならなくていいんだ」
 とは言ったものの、諄也は自分が発した言葉に驚いていた。まり慧との愛が単に二人にとどまらず、大き
な、それこそ歴史を変えてしまうほどの重大な意味を帯びてくる・・・そんなことは考えもしなかったからだ。
 次第に諄也の内面で、二人の因縁が持つもっと強いなにか、未だぼんやりして形ははっきりしないが、今
生の二人がどうしてもやらねばならぬ責任みたいなもの―――ある使命の意識が芽生えてくるのだった。 
 一方、まり慧は諄也の言葉に遥かな過去世より――きっと無始以来かもしれぬ――貫かれた永遠の愛
を実感することができた。同時に生命の奥深いところに根ざした心情―――それは恨みめいた反発の感情
だった―――が頭をもたげてくる。己の愛を苦しめるこの小悪魔をまり慧はもてあました。それでもこのとき
はまだ愛の裏返しみたいな可愛いものだったが・・・。しかし、過去世の様々な悪因縁が二人の周りで再燃
するようになる半年後には、これが烈しい憎悪に発展していくのである。
 今蜜月の中にいる二人は、行く手で地獄の業火がとぐろを巻いて待ち構えていようとはゆめゆめ知る由も
なかった。




                               




 (八)
 美しい霜月も終わり、暦は何かと気忙しい師走に入った。宿命の人と巡りあってはや三ヶ月。まり慧は刻
々と過ぎて行く諄也との日々が、今生色心ともに愛しあった証を互いの生命に刻みつける為に許された時
間ではなかろうかと、ふと思うことがある。その時間には限りがあって、きっとタイムリミットはそれほど遠く
ないかもしれない・・・。今日明日にも突然襲ってくるやもしれぬ愛別離苦を想像して、まり慧はおののいた。
なおさらバラ色の今がいとおしい・・・切ない眼差しを絡め合えずとも・・・求め合う唇に触れずとも。
  
 まり慧は本来死なねばならない運命の女だった。御本尊様に救われて、諄也という真実の夫に巡りあわ
ねば・・・。今の日本はこの女が生きていけるようなアワレな国ではなかった。
 あらゆる人の欲望がいっぱい詰まったバブルという夢がはじけてからというもの、世は上から下まで生き
残りをかけての凄まじい弱肉強食の様相を呈している。表向きは国民は国家に頼らず一人一人が立派な
自立をとか、時代に適応出来る者だけが生き残れる自然淘汰などと一見もっともな美辞麗句のごたくを並
べても、実際は本来の意味をはきちがえた合理主義という名の目先の利にとらわれた悪理念のもと、なん
ら抵抗もできぬ弱者に理不尽な皺を手っ取り早く押し付けて採算の辻褄を合わせ、慈悲を請い願う者を容
赦なく切り捨て、全ての希望を絶たれた者を死に至らしめるのが今の日本の実情だった。
 忌み嫌われ粗大ゴミみたいに扱われるホームレス化した社会的弱者も、かつては精一杯の税金を納め
て国家の恩に報い、或いは地域に奉仕し、企業に渾身の奉公をしただろう・・・。職と住居を失ったからとい
って、その努力を忘れ去られ、帳消しされる悔しさ無念は書くに忍びない。
 国民全てが痛みを!というスローガンは国民の差別相を無視した、愚直にしてかつ無慈悲な主張としか
いいようがない。痛みが即、死に直結する弱者もいるのだから。
 一方で一部の安定して富める者、様々な権力を有する特権階級の者たちの腐りきったデカダンは、こう
いう時代にお定まりの如く目下も進行形だというのに・・・。

 まり慧は死にかけたわが身を助けてくれた御仏様に限りない感謝を抱いた。朝晩のお勤めをしながら、御
報恩謝徳を真剣に祈ったものだ。
 御本尊様、諄也さんについて不自惜身命の信行をさせてください!そして・・・諄也さんとともに成仏でき
ますように!
 諄也が命がけの信心をしていることは何も言わずとも御仏様から悟らされていた。まり慧の行体にも諄也
はことのほか厳しかった。愚痴の一つもないと言えば嘘になるが、まり慧は心底諄也に夫唱婦随の真心で
ついて行きたいと願った。・・・過去世の因縁か、それともまり慧がそういう女だったのか・・・・・。
 
 その頃まり慧はパソコンの資格を取る為に週に3日、市内にある学校へ通っていた。
 Word、Excelの基礎から応用までをざっとやるのだが、インストラクターはみな娘や息子の年格好の若
い男女だった。なるほど三無主義といわれる若者たちの今様をまり慧もまた実感したものだ。
 彼らは決められたマニュアルは精巧なロボットみたいに忠実にこなすのだが、フレキシブルな応用、独自
の思考や発想、枠からはみ出た物事の理解や対応はとんと苦手な青年たちだった。三猿が賢者の要と信
じるイケ好かない保身主義の大人たちが、若者を三無の奈落に突き落したのかしらとまり慧は思ったりした
ものだ。それでも若人のシンボル―――純真、情熱、潔癖の三大美が彼らのちょっとした表情、意識せぬ仕
草、熱中する言葉の端々に顔を覗かせているのが、木っ端のような一国民でも、日本の将来に暗澹たる思
いを抱くまり慧をほっとさわやかにしてくれた。


 まり慧を滅入らせた、独りで迎える暮れや正月も、お寺参りや実家への顔見せで思ったよりバタバタと過
ぎていった。
 諄也から、暮れから正月の七日頃まで短いメッセージがほとんど毎日入った。気配りは有り難かったが、
家族の目を盗んでそっと愛を発信してくる諄也を、まり慧は生理的に軽蔑したくなるのだった。
 ひとりぼっちの侘しい祝膳につけば、家族に囲まれて屠蘇でほろりと和んでいるだろう諄也がチラつく。
・・・ありふれた浮気亭主のキャラが諄也に固定化してしまいそうで、まり慧は苛立った。自分を無性に無
限に無垢に愛してくれる裏の諄也を誰が知ろう・・・まり慧の永遠に真実の夫が諄也などとは誰が気づこ
うか・・・その事実を御仏様と自分しか知らない現実に―――まり慧はつぶれそうになるのだった。


 恨みの残滓が今も心に微かにざらつく正月も明け、普段の生活が戻った。一人暮らしの淋しさをかこつ
暇もないほどまり慧の日々は充実していた。五座三座の勤行を基本に家事、勉強にと精進した。学校の
合間に図書館にも通い、四月からの仕事探しに向け、パソコンを購入して毎日練習に励んだ。
 某かのパソコンの資格を取得しても、中年のノンキャリアが事務求職の狭き門をくぐって職に就ける可
能性は極めて低い。まり慧が現状を知ったのは学校に行き始めてすぐだ。それでも体力のない女は、パ
ソコンにしがみつくしかなかった。
 
「おまえの思うようにやりなさい。・・最後まで諦めずにしっかりとな」
「・・諄也さんはわたしだけの・・仏様?・・・あなたの手の平で悟空みたいに暴れ回ろうかしら?」
「こらっ!――」
 調子づいた冗談が飛び出すほど、諄也の物心両面のバックアップがまり慧を支えていた。
 この未曾有の非情な弱肉強食の時代に、なんらかの命綱なしに何人も生き抜ける道理はなかった。




                               




 (九)
「はい・・・?」
「紗李さん、何か要るものない?・・・散歩の帰り、スーパーに寄るけど・・・」
 まり慧は桧川宅のインターホンに話し掛けた。平日の昼間たまに声を掛けてみる。しょっちゅうじゃウザイ。
「アーモンドクリームのデニッシュ、ブルーキッズの・・・わかる、おばさん?」
「ええ、上にチョコレートがかかったあれよね?」
「うん・・・2つお願い」
「ガッテン、毎度おおきに」
 桧川紗李は登校拒否になって以来、外に出られなくなっていた。かれこれ六年になる閉じこもり生活を送
っている。共働きの両親と共有廊下とまり慧の部屋だけが、この娘の数少ない外界との接点だった。

「こんにちは」
「!・・・・・」
 エレベーターの昇降表示板に気をとられていたまり慧は、ぬっとかけられた背後の声に虚を突かれた。
振り返ると、同じ階に住む三村幸子が隠しきれない暗さの中に心細げに微笑んでいる。
「・・こんにちは。・・・今日はぽっかぽっかしてぬくいですね・・・日差しがきついくらい。・・四月下旬の陽気らし
いですよ・・・」
 まり慧は幸子の陰気を吹き飛ばしてやろうと、自然明るい顔を意識する。
「ほんとに・・・。まだ三月の初めなのに・・・やっぱり温暖化のせいですか?」
「どうでしょうか・・・年々あったかくなるのは感じますけど。―――お出かけですか?」
 エレベーターが止まって、二人は乗り込んだ。
「・・市役所の年金相談に・・・何とか貰えないかと思って―――」
「社会保険労務士だったかしら、専門家は。・・・年金のプロが教えてくださるから、きっといい方法が見つか
りますよ」
「・・だといいんですけど・・・。持ち時間が20分でしょう?・・・うまく答えてもらえるかどうか・・・無料だから仕
方ないですけど」
「タダじゃないですよ、わたしたちの税金で賄われているんだから。・・・ちょっと時間が中途半端ですよね・・・
せめて40分ぐらいあればね・・・。―――でも、案ずるより生むが安し、親切な人に当たりますわよ」
「そうですよね・・・世の中悪い人ばかりじゃないんだから―――それじゃ・・・」
 幸子の顔がちょっと楽になった。
「いってらっしゃい・・・」 
 引きずるように歩く幸子の磨り減った踵や、茶髪が伸びて地毛の黒とまだらになったセミロングがまり慧の
視界から侘しく去って行った。
 会っても挨拶もしなかった幸子とまり慧が懇意に話をするようになったのは二ヶ月ほど前のことだ。 

「この階に住んでおります、三村幸子と申します・・・時々廊下とかエレベーターホールでお目にかかっている
・・・」
「・・・・・」
「ほら、この間も其処ですれ違いましたでしょ・・・小2の娘を連れて・・・」
「・・ええ・・・で、何か・・・?」
「すみません、あの・・・証明をお願いしたいんです!」
 幸子が言いにくいことを思い切って云ったのはまり慧にもよくわかった。声が力み、震えていたからだ。四
十代と察する声音の様子からは、なにか必死なものも伺われる。
 まり慧はチェーンをつけたままドアを開けた。

 話を聞けば、三村幸子の事情はこうだった。
 夫がリストラにあって家族三人が社宅を追い出された。幸子と娘はこのマンションで年金生活をしている
母親の所に身を寄せたが、夫は定職が見つからず、飯場を転々として稼いだ金を時折妻子のところに持っ
て来ていたらしい。まり慧も二三度夫らしき男の人を見かけていた。そのことを証明してくれと言うのだった。
 幸子の夫は去年の暮れ、生駒の山中で自殺体で発見された。遺体の側らに妻子宛ての遺書と年金手
帳、家族の写真が大事に置かれてあったという。
 幸子は夫の遺志に従って遺族年金の請求を行った。しかし、苦しい生活を少しでも楽にしようと、母子家
庭の待遇を受ける為に籍を抜いていたし、お金が手渡しだったので生計を共にしていたという証拠もなか
った。彼女は極めて不利な立場だった。
 幸子は夫の葬儀をあげ、お骨を実家のお墓に埋葬して律儀に回向を行っているらしい。彼女は癌で子宮
を取ってからというもの体調が元に戻らず、まともな稼ぎも出来ず、夫の儲けだけにすがってきた女性らし
かった。
 
 まり慧は己と似通っている幸子に一にも二もなく証明を承諾した。幸子は当てにしていた他の入居者に
断られ、半ば諦めかけていただけに喜びも一入で、目を潤ませて礼を言ったものだ。
 それから二ヵ月後の三月に入ってすぐ、幸子に不支給決定がおりた。理由は離婚していることや、現金書
留や銀振りなどのお金の仕送りを証明する明確な証拠がないというものだった。如何にも今時の役所らしい
形式にとらわれた実のない、木を見て森を見ずの未熟な薄情の判断だとまり慧は思った。リストラの嵐が吹
きすさぶ今の世に、たかだか五万円足らずの児童扶養手当や無料の母子医療欲しさにやむを得ず離婚す
る夫婦もいるなどとは、血税で生活の安定した公務員には理解し難いだろうが、今だからこそ世情に即した
慈政が求められるのではないかとまり慧は憤慨したものだ。他人事といえども、理不尽な決定に尚もまり慧
の怒りは収まらなかった。籍を抜いても謄本等の書類が示す事実、実子の有無、行き来を見れば事実上の
夫婦か否か、所得証明ゼロで夫が金を入れていたことは容易に察しがつく。働けない妻の所に来るのに手
ぶらで来るはずがないのだ。第一、幸子が離婚しても実の妻であり、年金を受けるべき最大の根拠は、喪
主となって夫を懇ろに弔い埋葬し、先々回向の法事を営んで行くことだ。夫が死しても夫婦の絆はずっと続
いていくのである。近頃は道徳が廃れ、ろくすっぽ仏祭りもせず好き勝手な振る舞いをして、金だけ貰って
いる未亡人にも世間のお咎めは一向ないが、喪主の立場や責任の重要性重大性、回向の大切さをもっと
認識すべきだと、まり慧は幸子の代わりに役所に怒鳴り込んでやりたいと思ったほどだ。

 命の綱だった年金が不支給となり、幸子は娘を抱え、先のない不安に憔悴しきっていた。
「・・お父さん一人死なせてしもうて・・・かわいそうなことをしたわ。・・わたしもいっしょにホームレスでもなん
でもしてついていけば、こんなことには!・・・」
「そんな!・・・あなたや娘さんを案じてお母さんの所へ行くことに同意されたんでしょう?・・・ご主人はあな
たたちをどうしても助けたかったのよ・・・」
「でも・・年金がおりないことには・・・生きていけない!―――お父さんが寂しがっているのよ・・・わたしたち
に来てほしがってるのかもしれない・・・」
「何を言うの、しっかりして!・・あなたには娘さんもいるじゃないの。―――不服申立をしましょう、わたしも出
来る限りの協力をさせてもらうから・・・ご主人の尊い命を無駄にしないで」
「無駄?・・・あのひとの命は年金なんかにかえ――!」
「だからこそ・・ねっ、最後までがんばりましょう・・・三村さん!」
 幸子は心労で感情がもろくなっているように見えた。玄関にうずくまった体が嗚咽に波打った。
 まり慧はその背をやさしくなだめながら小声で題目を唱えた。胸の中にはさっき言った不服申立の言葉がし
こりとなってつかえていた。死神に両足あずけた幸子にああ言うしかなかったと無理やり納得させても、気の
咎める苦痛は一向減らなかった。
 まり慧は生活保護の申請で行政に苦い経験をしている。行政の対応にはおよその察しがついた。たとえ不
服申立をしても、立場や状況が不利な者には、いかに血も涙もないやり口で空虚と欺瞞だらけの裁断を下す
かを知っていた。今の行政が不利なる者の弱みにつけ込んで、真実がちりばめられた原因や経過を一切無
視して都合のよい結果だけを証拠として取り出し、平然と処断の根拠に据える無慚さを持ち合わせているこ
とを悟っていた。
 幸子にいったん下された冷酷な原処分が覆ることはまずない。まり慧はそう確信していた。
 題目を唱える声に力が篭った。なんとしてでも幸子を日蓮正宗に入信させ、諸天善神の不可思議なる加護
を頂き、なんとか生き延びてほしいと必死に願うしかまり慧にはできなかった。
 つい二日前の出来事である。

 幸子と別れた後、まり慧はエントランスホールの幾何模様のモザイクを見るともなしに眺めていた。・・・思い
出したようにオートロックの自動ドアをくぐった。何だか落ち着かない。モザイクもオートロックも自分の境涯に
は相応しくない気がする。あの時幸子にああカッコよく言ったものの、まり慧自身、ついこの前まで自殺志願
者だった。諄也の援助を受けているとはいえ、今も世間的には甚だ不安定な身の上だ。・・・己の信心も自信
も喪失してしまいそうな、シビアなまり慧の現実―――
「・・・南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――」
 まり慧は迷いを吹っ切るように、いつもの足取りで散歩に向かった。

 レンガの石畳に樅の大木がバランスよく配置されたハイカラなエントランスの――大抵、紙コップや菓子の
空き袋などが散らばっていて、当初期待された景観とはおよそ異質な食い違いがあったが――真ん中に立
っている、巨大な立体的短冊みたいなステンレス製オブジェの微妙なくねり具合にまり慧はいつもの感心を
見せ、陰険なふとどき者の手にかかってバラバラにされた哀れな自転車が、常時一台は転がっている駐輪
場を抜けて外の歩道に出た。
 季節はずれの紫外線がまり慧の全身に降り注いだ。出掛けに被ろうと下駄箱に置き忘れた帽子が癪に
障る。引き返そうかとも思ったが、『いつも』へのこだわりが今日はあった。日陰を縫うようにまり慧は歩き
出した。
 芽吹きも間近のイチョウ並木を通り、あるかなきかのサクラの蕾を、せめてその影でもと上を仰いで公園
を抜け、旧い街並みの軒下を飾る植木や花に粋も野暮もひっくるめて目を奪われながら、まり慧はいつも
の悦びに満たされていった。
 コンビニの前で車座になって解け合うあるが儘の若者たち、いつ見てもシャツ一枚で奮闘中のクリーニ
ング屋のおやっさん、10kgを肩に行ったり来たりの逞しい米屋のポパイ、世間話も具のうちと愛想一杯を
小さく焼くお好み焼き屋の中年小町、店先を覗くだけで目を光らせる駄菓子屋のギスギスばあさん、甘い
かなきり声でタイムセールの客引きをしている角のスーパーの金髪にいちゃん、彼らの姿に一陣の風の
眼差しを送って、まり慧は通り過ぎていく。市営住宅横の単調な市道を上りつめ、橋を渡り、内科医院、カ
レー屋、本屋、喫茶店の前を通って、まり慧はUターンするのだ。

「お父さん、頭あつくない?・・・お日さんがきついからね」
「ああ・・・。―――ハンケチあるか?」
「?・・・・・」
「頭に被せてくれ」
 ピンクのウインドブレーカーを着た娘らしき女は車椅子を止めて、自分の赤いチェック柄の帽子を父親に
被せた。
「お前があついだろうが・・・ハンケチでいいんだったら」
「私はお父さんと違ってボリュームがあるから構わないの」
 車椅子の父親はわが娘の照れ隠しの応酬に苦笑しながらも、それでも娘の帽子を被ろうとはしなかった。
 前を行く睦まじい親子のごくありふれたやり取りにまり慧の頬もつい緩む。微笑ましいが、別世界の幸せ
に思えてたまらなく羨ましかった。別世界?・・・平凡な世界に満ち満ちた愛情溢れる幸福こそ、まり慧の究
極の仕合せに違いなかった。が、どんなに求めても、求不得苦の苦しみしか返って来ないこの女の人生だ
った。今生即身成仏の暁には、この宿命が必ず転換出来ると信じたが・・・・・。
 
「お父さ―ん、お父さ―ん」
 まり慧も車椅子の親子も思わず振り返った。小奇麗な身なりのいかにも中流家庭の主婦といった五十が
らみの女が、重みのある体を揺らしながらバタバタと駆け寄って来る。手には男物の帽子が見えた。
「・・お父さん・・はい、帽子」
「ああ・・・」
 すまんともありがとうとも言わない夫の顔に満ち足りた色が広がっていくのが、追い越して行くまり慧の目
にも映った。
 ・・固い夫婦・・あったかい親子・・ほのぼのとしている家・・・・・わたしの一番欲しかったもの! 
 不意に、リアルに、正月に実家に帰ったあの場面が蘇った。感傷の涙が溢れてきた。泣きたくてしょうが
なかった。泣いて、涙を流して、あのひとときを、物心がついた頃よりずっと繰り返されてきたあの光景を、
永久にセピア色に褪せさせてしまえればどんなにいいかと、まり慧は思った・・・。




                               




 (十)
「お父さん、おめでとう。本年もよろしくお願いします」
「・・・おう・・・まり慧か。・・・こんなあばら屋でおめでとうもないわ―――まあ、上がれ」
 薄汚れた万年床に座って、一心に書きものをしていた洋介は眼鏡越しの上目でひょいとまり慧を見た。仏頂
面を取り繕っても、嬉しさを隠しきれない。
 まり慧は上がろうと座敷を見渡した。賄い以外のほとんどの所帯道具が置いてある六畳の見せの間は足の
踏み場もない。躊躇っていると、洋介がストーブを奥の間との敷居に移してくれた。空いた所に座ったものの、
火の気が少しでも遠のくと、冬空が覗く奥の間の天井の穴から寒風が吹き込んで来て、体がぞくぞくする。
「寒いやろ。屋根に被してるシートが昨日の強い風で剥がれてしもたんや・・・吹きっさらしやで。―――熱い
茶でも飲んで体を暖めるか?」
「うん・・・」
 洋介は枕元の盆にふせてある欠けてくすんだ茶器を取り出し、茶葉を入れ、ストーブの煮えたぎった湯を
注いだ。白い湯気が盛んに立って、空気が冷え切っていることを如実に示した。
 
 裸電球一つ灯った薄暗いあなぐらみたいな全壊同然の廃屋で、八十前の父は寒気と粉塵に毎日苛まれて
いる。明るい清潔な部屋でエアコンかけてぬくぬくしている自分が、まり慧はうしろめたい。賭け事に溺れて家
も子供も顧みなかった、父とも呼びたくない父であっても今の姿は辛すぎた。たまらず、いつもの話をまた持ち
出す・・・
「お父さん、はよう兄さんとこへ行きんか・・・こんな家にいたら、しまいに体をこわしてしまうわ」
 洋介は目の前の蝿を追うように、手で「いらん、いらん」とまり慧の話を遮った。
「なんでやの?・・今だったら全壊の認定が下りてるから潰すのもただでしょう?・・・暫くお母さんといっしょ
に兄さんの所にいて、その間に家を建て直したらいいやないの・・・?」
「手直ししたらまだまだ持つわぇ・・・芳樹のやつ、嫁にしかれおってちっとも手伝いに来くさらん」
「・・兄さんも・・仕事で忙しいのよ・・・」
 洋介の苦虫をかんだ淋しそうな横顔。・・・まり慧は悲しくなる。口ではなんといっても、兄の芳樹を頼りに
したがっているのは痛いほどだ。
「・・芳樹も春乃が溺れて育てたもんやから、人間が甘い。直、強い者の言いなりになりおる。・・・もともとわ
しに似て、三代目のような一角の器ではないがな・・・」
 在りし日の三代目が彷彿としたのか、洋介の目がじわっと潤んだ。
「兄さんが立派に再興してくれるわよ、きっと・・・」
「いいや!・・・」
 きっぱりと否定した洋介には動かしがたい諦観が漂っていた。そこに至るまでに傍目にはわからぬ懊悩が
当主の父にはあっただろうとまり慧は察した。何事も己の胸一つにしまうやり方が潔いといえば潔いが、誰
にも理解されぬ洋介が不憫だった。

「まり慧・・・信一さんと別れて、何して食べとんや?・・・前から気になってたんやが・・・」
「う、うん・・・いい就職口が見つかってね、今研修中やねん・・・お給料もちゃんと出るしね」
「・・そうか・・・。おかしな所だけは勤めるなよ・・・お前はほん小さいときから周りに苛められてたさかい、恥
かしいイタズラも受けとったんとちがうか思てな・・・そういう女はえてして身を持ち崩す、周りの色眼鏡に染
められてな。・・ええか、体だけは絶対汚すなよ、杉原家の恥や。・・食えんようになっても、いざとなったら
命を絶て、わかったか?」
「はい・・・」
「よっしゃ・・・」
 まり慧は父に言われずとも、金の為に身を汚すなどおよそ出来る神経はなかった。どんなに落ちぶれても
真底誇り高いところは、父譲りなのだとは承知していたが・・・。
「・・・お前も辛いのう。・・・春乃には邪険に育てられ、芳樹からはさんざん頭を押さえつけられて大きなった
から・・・。信一さんにもだいぶ責められたんやろ・・・。わしもお前が不憫やったが、ギャンブルにうつつをぬ
かして見て見ん態度、娘どころやなかった・・・。だがな、いつかはこの穴埋めをせなあかんと・・・ゴホゴホ、
ゴホーン」
「えっ?」
「いや・・・」
 まり慧は洋介のこんなやさしい言葉を聞いたことがない。厭なものを感じた。
 ゴホゴホゴホ、ゴホゴホゴホーン、ゴホーン、ゴホッ――― 
 洋介はまた咳き込みだした。肩が激しく波打っている。
「だいじょうぶ?・・・顔色が悪いやんか・・・」
 まり慧は洋介の背中をさすった。生まれて初めてだ、父の体にふれるのは・・・
「ああ、かまわんでええ、かまわんでええ・・・どないもないわ・・・・・」

「まり慧、来てたんか・・・」 
 ふってわいたように女の甲高い声がして、見ると上がり口に不機嫌な目つきの春乃が立っていた。
「・・お母さん・・・」
「お父さん、どないかしたん?」
 洋介とまり慧が親子睦まじくしているように見えたのが春乃は気に入らない。どこか刺々しい。二人の子
供の愛情を独り占めしなければ気のすまない女だった、春乃は。
「お父さん、具合が悪いみたいや・・・」
「ふーん・・・。どこか悪いの、あんた?」
「こんなあばら家におってどないもないはずがないやろ、アホが!・・・ちっとも、見に来くさらんと・・・」
「あんたが芳樹の言うこと聞かへんから、そんな思いしてるんでっしゃろ・・うちに言わんといて・・・」
「なに!」
 洋介は拳を振り上げて中腰になった。春乃はちゃっかり体半分後ずさって逃げる態勢だ。と、洋介がまた
咳き込みだした。

「おぃ、また金せびりに来たんやろ?」
「金せびりにいうて・・・あんたが貰う年金の中に配偶者を養う分が入ってるやないの!」
「妻らしいこともせんとってなにぬかすんや、お前は・・・。芳樹にばかりかまけくさって」
「あんたこそ、これまでずっと生活費もあんじょうくれへんかったくせして・・・うちがどれだけエライ目したか!」
「お前みたいな半人前、給料も半分で十分やったんじゃ、アホ!」
「人のこと、アホアホいうてバカにしくさって・・・なにさまのつもりや・・・」
「猫被ったお前に騙されて長屋の娘を貰うたのが一生の不覚、名家の杉原を潰したのはお前やで!」
「なんやて!・・・一介の職工のくせしてたいそうなもったいつけて、それこそアホクサ・・・職工でもまじめに働
けば可愛いが、賭け事ばかりしてぶらぶら遊んでいたのはどちらさん?お偉い当主のあんたやろ?・・・それで
杉原は潰れたんでしょうが!」
「もう一回、ぬかしてみい!―――」
 洋介は青ざめた顔をぶるぶる痙攣させている。だがいつもの拳も出なけりゃ罵声も発しない。すでに靴履い
てガラス戸に手をかけている春乃を、怒りと落日の威厳でもって睨みつける、落ち窪んだ眼孔の中の目も力
なく弱々しげだ。悲しみさえ感じる。
 まり慧は痛々しかった。・・・洋介の人生が戦争で狂ってしまったことは母だって知っているはずなのに。
なのに心ない言葉を父に吐く母・・・毎度のこととはいえ、まり慧は腹立たしい。嫁いだときから礼儀も知ら
ん長屋娘と、洋介や姑からいじめられた母の恨みを差っ引いても・・・・・

「お父さん・・・具合が悪いのやったら医者へ行ったらええやないの」
 着古してほつれた春乃のオーバーの裾が、まり慧のすぐ後ろにあった。漸く春乃も洋介の異変に気がつ
いたらしい。
「うちも体がどうもなかったら、ここへ来てお三度してあげるんやけど・・・」
「できもせんことぬかすな。・・食欲もないのに、お前の薄味など食えるか・・・」
「・・そやろと思うておせちも持って来んかったんや・・重たいし。・・・代わりにあんたの好きな穴子のヤタ巻
―――」
 てらてら光った薄ら寒いナイロン製の布袋から、洋介の機嫌を取ろうとなけなしの金で買った小さなちっ
ぽけな紙包みを、鼻をすすりもて、「お父さん、焼きたてでおいしそうやで」と、自分の口にも入らないいか
にも高価な一品を取り出すかの春乃に、一抹の哀れが漂う。人心を持つ者ならたいてい、春乃のような境
涯の女に憐憫を催すだろう。まり慧とて例外でない。が、わが母だと――!・・・耐えられなかった。

「金の無心に・・手ぶらじゃ気が引けるか」
 洋介は尚も憎まれ口をたたく。暗い皺を刻んで・・・。さっきの瞋恚も尾を引いていた。
「お父さん!お母さんを苛めるのはいいかげんにしてよ!」
 母の妻たる尊厳を執拗に辱しめる洋介にたまりかねて、まり慧は父をなじった。なじりはしたが、洋介が春乃
以上に自分を苛めているのはわかっていた。
 我が妻一人も仕合せに出来ない己への怒りに悶々としている、春乃も芳樹も思いも寄らない洋介の真実に
まり慧が気がついたのはいつごろだったろう・・・たぶん、小学校に上がって少し分別が付きだした頃かもしれ
ない。・・家族のわからぬ父の不幸がまり慧には見えてしまった。・・・だから尚のこと、小さいまり慧も不幸だっ
た、耐えられぬほど・・・洋介さえ気がつかなかっただろうが。 


 まり慧が散歩から帰って来ると、電話が鳴っていた。春乃だろうと思いながら電話台に駆け寄った。正月か
らこっちちょくちょく掛かって来ていた。芳樹夫婦としっくりいってないことも別段ないらしいが、なぜか春乃は
掛けて来る。
「もしもし、杉原ですが・・・」
「あっ?ああ・・・僕や・・信一や」
「!―――」
「久しぶりやなあ・・・元気?」
「・・・・・」
「変わりない?・・・。―――まりちゃん、聞いてる?」
「・・え、ええ・・・・・。―――ここは?」
「お袋さんから聞いたんや。・・・・・掛けて悪かった?」
「・・いえ・・そんなこと・・ないけど―――」
「・・・また、電話するわ・・・ほな―――」
 意外な、花岡信一の電話だった。受けるまり慧になんの準備もなかった。八ヶ月前に別れた、声すら聞
きたくない元夫にはっきりした意思表示も出来ないまま、電話は切れた。
 まり慧の言葉が曖昧になったのはなにも唐突なせいばかりでない。十年余り生活をともにした家族の情
愛みたいなものが無碍に信一を突き放せなかったのだ。かといって、決して喜べない信一の電話だった。
 そんなまり慧の心情を察したのか、過去の自分に気兼ねしたのか、信一はすぐ受話器を置いた。




                               




 (十一)
「何十年ぶりかしら・・・張りつめた、この心地・・・・・」
 まり慧は朝の人込みに揉まれながら久しい緊張感に包まれていた。昇ったばかりの卯月の太陽がやさし
い。黙々と無表情で歩く胸の内は、十色の不安でさんざめいていた。
 今日は実に十四年ぶりの社会人再デビューの初日だった。
 晴れがましいオートクチュールのニットスーツに身を包み、肩にかかるソバージュが春のそよ風に軽やか
に揺れた。つけたこともない艶やかな明るいローズ系のルージュが、以前の地味でくすんだまり慧を別人
みたいにイメチェンしている。ショーウインドウに映る姿が自分でも信じられないほど眩しく美しい。

 諄也の派遣会社にまり慧が正式に入社したのは一週間前の四月八日だった。あちこち面接を受けたがど
こも不採用で、結局諄也の肝煎りで大阪市内にある支社の正社員に雇われた。
 諄也はまり慧を知人の娘に仕立て、社長の鶴の一声で社内を納得させて入社させた。組織の長たるもの、
私情をはさんで波風の立たぬ筈がない。水面下では早くも二人の関係を勘ぐる者が出だした。
 社内のちょっとしたざわつきにも敏感な諄也であったが、まり慧のことは自分の才覚で乗り切れるといつに
なく高を括っていた。まり慧への愛欲が判断を多少とも狂わせたのか・・・一から立ち上げて二部上場にまで
成功させた己の経営手腕に奢りが見え隠れしていたのか・・・あるいはその両方だったか。
 これまで一分の隙もなかった諄也だけに、誰の目からも合点のいかぬまり慧の採用は、社内の主だった
者に己の弱みを曝け出すようなものだった。

 まり慧は支社からの出向という形で、実際の勤務地はトアル役所の市民課に配属になった。そこでの仕事
は住民基本台帳の入力業務だった。
 入力室には4名の市職員と、派遣会社から時給で雇われた契約社員3名が勤務していた。五十代の女職
員以外はみんな二十代の男女だ。
「今日からここで働いてもらいます、杉原さんです。・・・年がね・・・経験もないし・・・僕もどうかと―――まあ、
みなさん、よろしくお願いします」
 まり慧を連れてきた久島という営業担当の係長は先に市民課での挨拶をすますと、派遣メンバーにこう云
って紹介した。久島の目に意味ありげな笑いが浮かんでいた。おそらく大丈夫かなといったニュアンスだろう。
「杉原さんもわからないところは先輩によく聞いて、早く仕事を覚えてもらわないと・・・」
「はい・・・。杉原です、よろしくお願いします」
「岡崎です・・・」
「井口です・・・」
「舛田です、よろしく・・・」
 男1名、女2名の若いメンバーは今風か、それともこんなオバサンを連れて来られてヤレヤレと本音が出た
のか、どことなくそっけない。

 久島が帰った後、まり慧は課長補佐から住基業務に就くにあたっての一通りの話を受けた。入力中に知り
えたデータ―の機密保持の厳守がその話の要ではあったが・・・
「・・杉原さんは三十九歳・・ですか?」
 課長補佐は書類とまり慧を交互に見ながら訊ねた。久島ほど露骨ではなかったが、あの男と同じニュアン
スを慇懃な表情の下にまり慧は感じた。
「はい・・・明日で四十になります」
「目なんか・・・大丈夫ですか?・・・いや、私などももう老眼でね・・・まだ四十二ですが・・・」
「・・少し、あります、老眼は。・・・どうしても仕事に差し障るようでしたら眼鏡を―――」
「ふーん。・・・もうちょっと若い方をね・・三十ぐらいまでの人が来られると思ったんですがね・・・」
「一生懸命やらせていただきます。・・・慎重に、細心の注意を払って・・・」
「いやあ・・・最初はどうしてもミスしますよ。やはり三ヶ月ぐらいかかるんですよ、住基の処理を覚えるまでに。
杉原さんもその辺をめどにね・・・。―――まあ、そんなに思いつめなくても。そのために職員がチェック体制
をしいているんだから・・・。ただ、うちは端末機の技術要員ということでお願いしていますからね・・・パソコン
はだいぶ長いこと?」
「4ヶ月です。・・・ブラインドタッチも可能ですし、一応ビジコン3級も取得しています。入力スピードは和文で
10分間に400字ぐらい打てます」
「そうですか。・・・で、今までどこで?」
 履歴書を見れば、二十五の時教材関係の会社を辞めてから十四年間のブランクがあるのは分かりきって
いた。・・・奥歯に物が挟まった調子でまり慧をジワジワ追い詰めてくる、課長補佐のねっちりした厭味だった。
「・・・結婚で仕事を辞めてから今まで主婦専業できたものですから・・・」
「・・・十四年間、何も?」
「はい・・・」
「しんどいですな・・・」
「いいえ、そんなことないです!・・・やる気が一番だと思います。年齢や経験に今の時代はとらわれ過ぎだ
と思うんです。・・・目の前の利益に経営者があまりにも右往左往して―――」
「ほおう・・あなたの持論ですか?」
 課長補佐の目の色が変わった。公務員は思想家を敬遠する。
「私の経験です。求職活動の末の・・・」
「・・あなたの会社のキャッチフレーズ、知ってるかな・・・?」
「?・・・・・」
「『すぐ役に立つ即戦力を即座に派遣!』ですよ・・・」
「そうですか・・・・・」
 まり慧は諄也の経営方針をこの時初めて知った。シェアの拡大を狙って貪欲に顧客を開拓しているのだ
ろう。まかりまちがっても、まり慧のような条件の悪い求職者を救済してやろうという雇い主ではなさそうだ。
自社の儲けだけにあくせくしているように見える。――― 思い出したくない、ビリドゥーエの一件が心をか
すめた・・・

 初出勤の晩、まり慧はひどく疲れていた。慣れない端末機器を懸命に操作した肉体疲労もあったがそれ
は心地よいものだった、久方ぶりに味わう勤労の後の喜びというか・・・。まり慧の深刻な疲弊は一種異様
な雰囲気が充満するあの狭い入力室で受けた、精神的苦痛から起きていた。

 その入力室は市民の目から隔離された一角にあった。まり慧がそこで経験したことは別段驚くことでは
ない。ありふれた、人間のどろどろした醜い営みを覗いたに過ぎない。市民の血税で運営されている公舎
の一室で繰り広げられる人間模様でなかったら、さして気にも留めなかっただろう。
 市役所といえば市政を行う本丸だ。まり慧に限らず、誰だって良識ある人間関係を構築しているものと
期待するではないか。

 まり慧たち派遣社員の仕事は、市民が届け出た転入、転居、婚姻、出生、死亡などの住民記録をオンライ
ンシステムの住民基本台帳に入力していくのが主な内容だった。入力ミスがないかどうかチェックするのは
市職員の仕事で、双方にミスがあった場合は間違った情報がオンラインにのることになる。気の抜けない
仕事ではあった。処理もその場で証明書類等の発行を求められる場合は即、でない場合は準即の扱いに
なる。
 端末機の操作はコード番号の入力が主体の、別段高度なテクニックを要しないものだった。端末機の癖
に慣れさえすればたいていの者は使いこなせる、まり慧たちを技術要員と呼ぶほどの大層な機器ではな
かった。やっかいなのは処理をする際の専門知識だ。戸籍が絡んでくると複雑になってくる。マニュアル
通りに行かないケースバイケースなのもあり、件数を当たっている熟練者でないとわからないことも結構
ある。手書きの文字も見慣れていないと最初は読みにくかった。

 まり慧は一、二ヶ月経った頃、派遣社員が結構手ぶらな時間が多いことに気がついて、身の程知らず
にも課長補佐に進言したことがあった。
「あの・・・この仕事は外部がやるより、住基に精通している職員の方がスムーズに行くんじゃないです
か?経費も削減できますし・・・」
「以前はミスが多かったんですよ、職員がやっている時はね・・・」
「・・確かに間違えることが許されないから神経は使いますけどね・・・」
 ・・気の入ってる人が少なかったのかしら・・・・・?
「それに・・・公務員は年数が経つと給料も上がってくるから、いつまでもこんな仕事はできないし・・・」
 こんな仕事って・・・どういう意味ですか?!・・・・・
「僕たちは公務員試験に合格した行政マンだからね・・・端末操作なんかやるべきじゃ―――」
 後は濁して、課長補佐はその場を去った。
 彼の言葉に公務員のエリート意識みたいなものをまり慧は感じずにはいられない。市民への奉仕精神
の強い者こそ公務員の資質に適う筈なのに、奢りばかりが目立つ。
 極上の労働条件に恵まれながら行政マンだと自負する彼らの下で、落札した会社のまり慧のような派
遣社員が、お粗末な賃金で彼らがバカにしてやりたがらない仕事をせっせとするわけか。大企業の正社
員が自分達の嫌がる仕事を臨時雇いや下請け労働者に、正社員とははるかに劣る労働条件で請け負
わす構図と同じである。血税がお給料の官こそ他企業の模範となるような、成熟したワークシェアリング
を率先してやろうという気概があって然るべきなのに・・・。不条理な憤りがまり慧につのる。
 が、しかし、やっとありついた仕事だ、諄也の情で得た仕事であろうとなんであろうと。まり慧は死に物
狂いでしがみつくしかなかった。その覚悟で仕事に臨んでいた。
 まり慧は入社した時から諄也の援助を断っている。いくら真実の夫といえ、表は何の関係もない。理由
のないお金は貰いたくなかったのだ。まり慧は一人の人間として立派に自立することを純粋に望んでい
た。―――道理など二の次三の次の弱肉強食の今の時代、まり慧の善良な願いなど、世間知らずなバ
ツイチの夢物語だと直思い知らされたが・・・

「これは大文字で入力するのよ!」
 リーダーの岡崎秀紀についてデータの発禁解除の処理をしていたまり慧のデスクに、書類がポーンと
投げ置かれた。産休を控えた職員の竹本里子がこちらを見ている。
「えっ?・・・促音便の名前もですか?・・・すみません、知らなくて」
 と答えたものの、詰問の調子がまり慧には意外だった。メンバーに訳を尋ねると、職員しか修正が出来な
いので面倒がって嫌がるらしいのだ。ミスチェック体制があっても、実際は許されないミスのようだった。と
いっても人間のすることだ、どうしてもミスは出る。他のメンバーにもちょくちょくミスは出た。が、初歩的なミ
スじゃないせいか、まり慧ほどきつくない。
「・・・僕、杉原さんにちゃんと言ったんですけどね・・・」
 岡崎も責任のがれの眼差しで横のまり慧を見る。
「杉原さん、今度から間違えないでね」
「はい・・・・・」
 今度間違えたら・・・どうなるの?!
 初日で天地も分からぬまり慧なのに一つのミスを犯してもこの調子だ。何度もすれば技術要員失格という
レッテルすら、安易に貼られそうな雰囲気がじわじわ押し寄せてくる。
 理不尽なプレッシャーのボルトを上げるのが課長補佐のときどきの回審だ。高齢でキャリアのない胡散臭
い女の手許を後ろから伺いに来る。自分には4ヶ月の猛練習と、他のメンバーにはない資格があるのだと
激しく叱咤しても、繊細なまり慧の指先は周囲の偏見の目に過敏に震える・・・。

「篠原!」
「はい・・・」
 職員の篠原亮太はドキッとして同僚の野上麗子を見た。口が特有の動きを見せる。篠原は小児麻痺の後
遺症が顔と手足に残っていた。
「――さんの転入の照合終わったんか?」
 篠原の手が書類入れをぎごちなく掻き回す。
「あっ、まだ・・・すぐします」
「お前、なにやってんのや!三十分も前に入力済んでるのに!」
「前の――さんの照合がどうも腑に落ちなくて・・・すみません」
 まり慧も後で分かったのだが、篠原の仕事は要領が悪かった。疑問が出れば後先忘れてのめり込んで
しまう。ちょっと頼まれれば断れない人の良さも仕事のペースを乱した。黙ってられないのが口八丁手八
丁の仕事が出来る野上と竹本だ。結局篠原は年下の女たちからいつもボロクソに叩かれる。能率も上が
らないのに、給料が女たちより上なのも苛められる理由の一つだったのだろう。
 違う職場の有川将が油を売りに来た。これもまり慧は後で知ったのだが、来ればたいてい篠原のこき下
ろしが始まるらしかった。
「篠原、お前、市民に迷惑かけて公務員失格やぞ!・・・辞職しろよ・・・生きてる価値もないわ」
 さすがに篠原の顔がこわばる。
 そこへ別の職員が来て、
「―――ていう奴、頭がおかしいのと違うか・・・言うことがとち狂っとるで」
 と、手のかかる市民の、表では決して言えない悪口を吠えるわ、まくし立てるわで憂さ晴らしに一時費や
す。周りもみな、一様に慰め顔。
 篠原は自分から話題がそれて、ほっと息ついた様子だ。
 
 ミスっちゃいけないと神経をとぎすまして真剣に画面を見詰めるまり慧の耳は、初めて聞く役所の舞台裏
にただ面食らうやら唖然とするやらで・・・・・が、所詮は自分と関係ない高見の他人事だった。それが一ヵ
月も経たないうちに、今度はまり慧自身が篠原亮太に負けじ劣らじのエグイ苛めをメンバーから受けようと
は・・・・・
 
 
     今晩は。
     今宵はベランダから見える公園の花吹雪がとっても美しい!・・・桜のフィナーレね。
     名残惜しいわ・・・仕合せだった春が行ってしまうのが・・・・・
     眠くて頭も目もぼーっとしてます。夢うつつで打ってるの、これ。
     字が間違っていたら、ゴメンナサイ。

     初仕事の今日一日、いろんなことがあったわ。
     (まり慧は市役所での出来事を手短に綴った)

     周りの色眼鏡に染まってあっけなく潰されそう。精一杯の自信を維持するのが至難の
     技よ・・・・・
     わたし、あなたの会社の異邦人みたい、理不尽な気もするけど・・・・・

     業突く張りやの社長さん、商品価値の少ないわたしを雇い入れてあなたの気苦労が
     目に浮かぶようだわ・・・・・
     社内の反発は大丈夫なの?・・・・・気がかりな、心配性のまり慧より     
     
     
     お疲れ様。久しぶりに巷の空気を吸って疲れたみたいだね。
     ・・・人間なんてのはそんなものだよ、どろどろしてるさ・・・あまり、気にするな。
     周りに振り回されないで、裏の俺を信じてがんばっておくれよ。

     表の僕に幻滅したかい?・・・君の社長は儲けしかないように見えるだろう?・・・・・・
     実際そうだが。
     ・・・妻も部下も会社の取引先も、お前以外の俺を取り巻く全ての因縁が、今時の業
     突く張りの経営者喜山諄也たらしめるんだ。表の俺はどこまでも目先の利益に奔走
     する平凡な企業主なんだ。またそれでいいんだと思う。真実の俺を出してお前と共に
     非凡なことをやらかしても、結局前世のような破滅が来るだけだよ。・・妻子も部下も
     社員もみんな不幸にさせてしまう・・・・・二人だけの悲劇ですまないんだ。

     俺だって・・・本当のところ、今のやり方がいいとは思っていないよ。
     最近の労働市場といえば、経営者が欲しがる若くてキャリアのある人材が、より好条件を
     求めてぐるぐる回転しているだけなんだから。限られた人材の流れだよ。そんなものはい
     つかは行き詰まりが来るさ。
     第一、条件で転々とするような社員を抱えていても、真にその会社の発展につながるか
     どうか疑問だな。仕事に対する熱意になにか不純なものがあるような気がする。年齢や
     経験にこだわらず、ほんとにやる気のあるものを一から育てて会社の人的資源にする方
     が、労使の強固な信頼関係も築けるし、仕事への純粋な意欲が思わぬ付加価値を会社
     にもたらすかもしれない・・・損をして得を取れって昔から言うじゃないか。
     確かに、今が盛りの若者の能力も実務経験者も大いに魅力だよな、経営者にすれば。力
     があるんだから。しかし、物事は力の有る無しで解決できないことも必ずある。
     そんな事態に陥ったとき、今もてはやされる人材が果たしてどれだけ会社の役に立つか
     だ・・・・・
     もう一つはちやほやされていい気になっている若者の暴走だ。人生経験の少ないぶん、思
     慮が未熟だ。力を持った若者の暴走ほど恐いものはないさ。
     よく言うだろう、亀の甲より年の功って。現代は若い力に押されて年配者を軽視する傾向に
     あるが、危険だな。とんでもない方向に進んでしまうリスクがあるよ。たとえ能力が衰えても、
     年寄りのこれまでの努力や実績、長年の経験による深慮をもっと尊重すべきだと思う。
     経営が苦しくなると中高年は口減らしのためにリストラされる世の中だが、あれは姥捨て山
     の発想だね。一時は経費が削減できて会社は如何にも生き延びれたように思えても、長い
     目で見れば結局大きな負を背負っているんだよ。悪因を積んでいい結果が出るわけがない
     もの。その報いが将来どういう形で出てくるかだな・・・・・
     
     お前は公務員や大企業に比べて中小企業の労働条件の悪さを不条理と嘆いているが、この
     不均衡は今に始まったことじゃない。ずっと以前から指摘されていたことだ。だが、バブルがは
     じけて景気が冷え込んでからいっそうひどくなってきている。両者の待遇の格差はそのまま
     貧富の格差につながっていく感じだね。
     一握りの金持ちと数多の貧乏人があふれる世の中がまた来るのかな・・・このまま行けば。
     
     出口の見えないまっ暗なトンネルから日本が抜け出すには・・・きっと・・・非凡なエネルギー
     が必要なんだよ・・・・・俺はこの頃そう思うようになった。
     
     まり慧、表の俺がどうであれ、お前は真実を貫いて生きていくんだ。・・・安易に力に妥協した
     り屈服してはいかん。・・・純粋なお前でありつづけるんだ・・・わかったかい?
     まり慧、必ず守るよ!・・・安心しなさい。     お前を大切に思っている諄也より

     
 メールに添付された諄也の写真―――実業家喜山を知る人は一様に言うだろう、『この人じゃない、喜山
社長は』。まり慧しか知らない顔だった、画面のその人は。・・・生き馬の目を抜く抜け目なさなど欠片も窺え
ない、柔らかな面差し。かといって妻子のことを話すときの、あのデレっとした甘ったるい表情とも違っていた。
「・・・周りが知っているあなたは現実的な物欲主義者なのに・・・本当は精神的至福を求めるナーバスな純
情派だなんて、誰が信じる?・・・私だけにあなたの真実を守らせようとは、虫がよすぎるぞ!」
 愛の星がいっぱいキラキラしている諄也の目を、まり慧は指でピンとはねた。

 リビングで電話が鳴っていた。
「もしもし・・・杉原です」
「僕や、信一・・・」
「・・信ちゃん―――」
「・・まりちゃん、仕事に行ってるんやな」
「・・なんで知ってるの?」
「昼間かけたら留守やったから・・・」
「・・今日から・・・行ってるのよ・・・」
「仕事見つかってよかったな、ほんまに・・・。まりちゃんが僅かな金、持って出て行った時は僕もどうなる
かと思ったけどな・・・」
「・・・・・。変わりないの?」
「・・・おおありや!―――」
 不意に信一の声が割れた。
 受話器を離しているのだろうが、泣き声が途切れ途切れにまり慧にも伝わってくる。
「・・・なにかあったの?」
「おれ、リストラされそうやねん。・・・秋頃かな、ほぼまちがいないわ。・・・報いやな、まりちゃんを苛めた・・・」
「・・・・・」
「・・首になるとわかったら、周りの人間がころっと変わりよった、親しいダチや身内まで冷とうなりよる・・・」
「・・信ちゃんは運転も上手やし、器用やから再就職できるわ・・・」
「そやな・・・。けれど今の仕事ほんまに性にあってたさかいなあ」
「・・・がんばって」
「うん・・・・・まりちゃんもな」
「ごはん、ちゃんと食べとんの?」
 言ってしまってまり慧は後悔した。信一を不憫に思っても、もとの夫婦に戻れないことはわかりきってい
た。信一の心を揺らすだけだと思った。
 案の定、信一の声がはずんだ、
「今日で三日目やで、カレー。煮込みすぎてヘドロみたいやわ。その前はずっとチゲ鍋やったし・・・」
 信一の自嘲とも愁訴ともつかぬ高笑い。まり慧は困惑した。が、別れた夫が期待した言葉は、元妻の口
から出て来なかった。
「・・・・・」
「なんで・・・あんなにおいしいものを毎日作ってくれた嫁はんを苛めたんやろ?!・・・アホや!おれ・・・別
れてからずっとそう思てた。・・・まりちゃんに取り返しのつかんことをしたわ!」
「・・・泣かんといて、もう・・・・・昔のことをいってもどうにもならへんわ。それよりなんとか生き抜いていっ
て・・・」
「ありがとう。・・・・・まりちゃんもまじめやさかい、あまり無理せんときな・・・。―――また電話するわ」
「・・ええ・・・・・」 
 電話を切ってからも、信一の涙声が後ろ髪を引くようにまり慧の中で残った。




                               




 (十二)
 市役所に勤め出してから二週間経った。初日の緊張は薄らいでゆくどころか日を追って増していく。知らな
いことだらけの中でままならぬ質問、許されないミス、無言の内に容赦なく急かされるスピード、周囲の冷視、
あら探しに来る課長補佐の目、職場のいびつな人間関係。まり慧はお題目を唱え抜いて、なんとか乗り切ろ
うと決意したが・・・・・

 或る日のことだ。
「杉原さん、そんなやり方だったら時間食うから、僕らの方法でやってほしいんだけど・・・」
「えっ?時間が食う?―――」
「全部入力してから後でまとめてチェックしてよ。杉原さんは入力ごとのチェックだろう?だから遅いんだ」
「でも・・・書面の形式も画面の項目にもまだ目が慣れていないから、ミスしちゃいけないと思って慎重にや
ってるつもりなんですけど・・・」
「今言った通りにやって・・・」
「・・慣れるまではこのやり方でないと・・・まちがいそうで―――」
「ずっとそれでやられるとまずいから言ってるんでしょう?・・リーダーの指導どおりやってよ・・・」
 二人のやり取りに他のメンバーもこちらを見ている。職員も聞き耳を立てていた。
 三ヶ月も早くこの仕事に就いた岡崎たちは届出書にもマシーンにも要領がつかめているだろうが、まだ言
われるままに目先の処理をしているまり慧は仕事の流れが掴みきれていなかった。チェックをまとめてやれ
といっても見落とす可能性があった。慣れれば自然岡崎たちのやり方になっていくのが道理なのに、理不尽
な気がした。スピードが二週間経っても他のメンバーに比べてスローなのが(三ヶ月の開きがあるのだから
当然だった)、気に障り出した岡崎たちの不満をまり慧は言葉の端々に感じた。
「三ヶ月もすればリーダーの言われるやり方でやっていると思います。でも・・・今の方法でも慣れればそん
なに差はないんじゃないですか?・・・あってもミクロの違いですわ」
 岡崎たちの理にあわぬ短絡な不平ムードに押されまいと、まり慧は毅然と言い放った。言う通りにすれば
なにかにつけて責められそうな、篠原の二の舞になるかもしれないという危惧さえあった。
 が、若いメンバーの怒りはまり慧の予想以上だった。岡崎は青ざめて手がぶるっていた。それでも理の通
ったまり慧の言い分になにも反論できない。過激な反感が彼らの中に陰湿に燻っていった。

 一週間後久島が来て、まり慧を市役所内の喫茶室に呼び出した。久島は露骨に刺々しかった。
「もうそろそろ、ひと月だね。杉原さん、どう?」
「?・・・・・」
「メンバーのスピードについていけそう?」
「まだ一ヶ月ですから・・・岡崎さんたちとは三ヶ月も離れてますし・・・同じスピードにはなかなか・・・・・」
「一ヶ月も三ヶ月も関係ないんだ。同じレベルになってもらわなかったら他のメンバーに迷惑がかかるんだよ」
「迷惑?・・・課長補佐さんも三ヶ月はかかるっていうてはりましたけど・・・・・」
「・・・辞めてくれないかね」
「!―――。・・私に落ち度があるなら・・・身を引きますが・・・」
 まり慧の言葉に久島の態度が急に柔らかくなった。にこにこ笑いながら、
「またいいところがあったら紹介するよ」
「いいところって、私、正社員のはずですけど・・・」
「そ、そうだったね。・・まあ、必ず紹介するよ、工場か清掃のパートタイマーかなんかね・・・。―――君、喜
山社長の知り合いだって?」
 久島の手が避ける暇もなくのびてきてまり慧の肩を掴んだ。いやらしい雰囲気をまり慧は敏感に感じ取っ
た。辱しめられる怒りが心を突き抜けていった。その勢いでモヤモヤしていた弱気も吹き飛んだ。
「さっきのことば、撤回します。理由もないのに辞める必要はないと思います。これからも精一杯がんばらせ
てもらいます。―――それから、あなた、セクハラは許しませんよ!」
 まり慧は自分の肩を指差しながら久島を睨みつけた。
 久島は一瞬唖然としたものの、直険悪な形相でまり慧を睨み返してきた。

 その翌日だった、メンバーたちの一斉無視が始まったのは。朝夕の出勤退社時、休憩の交替時には声を
掛け合うのが通常だが、そ知らぬ顔でまり慧の存在すら認めないという暴走ぶりを示す。見かねて職員が
代わりに応えてくれるありさまだった。まり慧のIDカードを書類の間に滑り込ませて隠したり、如何にも腹が
立つといわんばかりにバーン!と音を立てて書類を置いたり、まり慧がミスると、三人が集まってヒソヒソ話
で心理的に追い詰めるといったことを繰り返す按配だ。
 こうして篠原苛めも影が薄くなるほどの、エグイ苛めが公の市役所の入力室で毎日繰り返されていった。
当初見て見ぬふりをしていた課長補佐も、何かトラブったときの責任を恐れてしきりと派遣会社をつつき、久
島が再三来て仕事中のまり慧に退職を迫る事態になった。無論、まり慧は断固としてそれに応じなかった。
 業を煮やしたメンバーと久島は、仕事が終わって帰ろうとするまり慧を入力室で取り囲み、強引に辞めさせ
ようとしたが・・・・・
「杉原さん、この場で命令します。退職しなさい!」
「理由はなんですか」
「君、みんなと協調できてないじゃないか!」
「それはわたくしではなくてメンバーですわ。無視という非常識な行動でそれを実証しているじゃありませんか」
「なに言ってるのよ、杉原さんが大声でリーダーに文句つけるから、私たち許せないんじゃない!」
 派手な茶髪に染めた井口があぶらぎった真っ赤な口を尖らして云った。ラメ入りの原色のマニキュアをした
手を偉そうに組み、パンツのラインまで切り込んだスリットスカートからはみ出たすっぴんの太ももで仁王立
ちになって、まり慧の前に立ちはだかった。 
「えっ?!・・わたしが大声で文句を?!・・・云ってないわ。嘘をつかないでちょうだい!」
「職員の竹本さんも言ってるのよ、『杉原さんが岡崎君と大声で喧嘩してて、その声が市民課の受付まで聞
こえていたわよ』って」
 副リーダーの舛田が大きな胸を自信ありげに揺らしながら云った。小動物を追い詰めていく猛禽類にも似
た表情だ。
「わたくしはね、岡崎さんに文句も言ってませんし、喧嘩した覚えもありません。物事の筋道をお話しただけ
よ。・・声が大きいのは地声だわ。・・竹本さんをここへ連れてきて。わたくしから説明します」
「なにがわたくしよ、気取っちゃって・・・」
「杉原さんのデスク、いつも書類がバラバラになって、私たち迷惑してるのよ・・・実務経験がない人にはわ
からないだろうけど・・・」
「わたくしには覚えがありませんけど・・・気がついたらその場で言ってくれればよろしいでしょう?」
「とにかく、杉原さん、今日かぎりで辞めてくれ」
「お断りします、絶対に・・・明らかな落ち度がないかぎり、わたくしは辞めません。――それより、こんな公
舎の一室で、集団イジメみたいな真似をしていいんですか?・・このような仕打ちを受けたと、わたくし、此
処の責任者、つまり市長さんに陳情を訴え出ますよ、今後また同じことをされないように・・・」
「・・大きなことを言って・・・!」
 久島の憎々しげな侮蔑を耳に刻んで、まり慧は入力室を後にした。


 やっと手にした希望に、明るいはずの毎日が辞めろ辞めろと責められる地獄の日々になった。 
 辛い!・・・どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの? 
 外では鼻っ柱の強い気丈夫な女を威勢よく振舞っていても、元々ナイーブな性質だ、逆境の痛みが身に
しみた。裏の諄也が支えてくれなかったら、とっくに辞職していたろう。みんなから疎まれて居座る神経の太
さは、生来まり慧にはなかった。
 諄也の支えは裏返して言えば、諄也の言葉を信じ抜くことだ。まり慧が会社を辞めないのは諄也を守って
いることに他ならなかった。
 ・・・係長の久島さんが私を辞めさせたがっているのは、当然会社の方針・・・ということは喜山社長の・・諄
也さんの意思?
 そう考えると、まり慧はひどい不安に陥るのだった。
 表の諄也さんと話がしたい!・・・・・

 その日、水曜日はテレホンデーだった。
 9時きっかりにまり慧は電話を掛けた。喋りたくなくても話すことは職場のイジメだ。まり慧は今日、入力
室でみんなに囲まれて退職を迫られたいきさつを話した。
「針の筵だな・・・かわいそうに。よく辛抱したね、まり慧・・・」
「・・あなたは・・喜山社長はどう考えてるの?・・・教えて」
「・・・・・」
「ねえ、お願いよ!」
「・・・表のおれはおまえとこうやって話はできないんだ・・・わかってくれ―――な、まり慧」
「でも、あなたの部下がわたしを辞めさせたがっているのよ・・・混乱するわ!」
「もっともな理由もないのに辞めさせることなどできないんだ、おまえは正しいことを主張しているんだよ
・・・自信を持っておくれ」
「メンバーたちは会社ぐるみでわたしを追い出そうとしている・・・向かうわたしはたった一人の微力な個
人よ・・・勝ち目などあるはずが―――」
「おまえがおれに助けを求めたい気持ちは痛いほどわかる。だがな、表のおれは弱い立場の人間に力
を貸すような良心的な男じゃないんだ。むしろ利の為なら弱肉強食も辞さない功利主義者なんだよ」
「それはあなたの本質じゃないでしょ!」
「おれが自分を取り巻く因縁を最後までまっとうしなければ、悪因縁は断ち切れないんだ・・・おれもおま
えも永遠に真実を顕すことができなくなるんだよ」
「・・・この命に感じてるのよ、わたし・・・あなたが本当は多くの人々を救い、導ける人だってことを―――
自分を顕したくないの?」
「おれの真実はおまえの中にだけあればいいんだ。それで十分なんだ」
「・・・あなたって・・・人が想像もできないくらい強靭な意志の持ち主なの?・・・偉大なのかしら・・・?」
「誰も知らない裏のおれを純粋に守ってくれるおまえこそ・・凡人でないのかもしれないな・・・」
「わたしが?・・世間の大方の者がバカにする、並み外れた弱者のわたしが非凡だというの?」
「まり慧・・・おまえは純真で誇り高い女だ・・何ものにも染まらない潔癖な心だって持っている。裏のおれ
を愛し守ってくれるのは、おまえしかいないんだ・・・信じてくれ」
「・・・相変わらず強引ね、あなたは・・・・・」

 まり慧は電話をかけるまで、ひょっとして諄也が今の苦境から自分を救い出してくれるかもしれないとい
う期待を淡く抱いていた。が、やはり、表裏ともに正直でなければならないという諄也の姿勢に変わりはな
かった。それでもまり慧は愛してくれる諄也がいるかぎり、どんなに責められても解雇になることはないと心
のどこかで安堵していた。それが表の自分に不正直な、甘ったれた考えだと気づきもしなかったが・・・。
 そもそも諄也自身がまり慧に私的にお金を援助したり、一存で自分の会社に入れたことが既に不正直な
表の行為に違いなかったのだ。・・・その果報がどんな結末となって現れるか、諄也もまた予想していなか
った。

 ・・わたしの責め地獄はこれからもずっと続いていく・・・辛抱するしかないのかな。・・・諄也さんが言うよ
うにわたしに理があっても、メンバーは納得するはずがないもの・・・・・
 力こそ正義がまかり通っている時代、強者に楯突く弱者は協調性がないとみなされ、弱い者の真実は
隠蔽され踏み躙られる・・・それを不条理と憤る現代人は少ないわ・・・・・

 まり慧は愛する諄也の力を以ってしても逃れられない己の虐げられた運命が、あまりに情けなく、たまら
なく忌まわしかった。・・・ほんの少しの間でいい、まやかしでもいい、現実から逃避したいという欲求を抑
えられなかった。普段は節制して夕方のニュースしか見ないテレビだが、その前に座り込んで、はぁーっと
ため息をつきながら、片時この辛い現実を忘れさせてくれる癒しをブラウン管の中に求めた・・・・・




                               




 (十三)
 NHKがイラクの国連査察受入れのニュースを報じていた。・・・と、まり慧は今の今までの鬱陶しい気分も
一瞬忘れて、思わず画面に見入った。
 ・・戦争が回避できるのかしら?!・・・・・
 次の場面ではアメリカのブッシュ大統領が出てきて、我々はイラクに二度と騙されないと意味不明な大熱
弁を振るっている。派遣レポーターがアメリカのイラク攻撃のシナリオは既に決まっているようですと沈鬱に
取材を括っていた。
 蛇に睨まれた蛙みたいなイラク・・・国連の経済制裁を今も受けているというのに・・・・・
 最近の独善的を越えて独裁的とも思えるアメリカのやり方に歯止めをかけれる国はないのかしら・・・・・
 超大国の名を欲しいままのアメリカに跋扈を許している長いものに巻かれろ主義の国々の中に、不名誉
なことだけどわが国もちゃんと入っている。本来なら日本は同盟国だし、アメリカに原爆を二つも落とされた
悲惨な経験を持つ世界唯一の被爆国なのだから、奢り暴走するアメリカに一言も二言も毅然と忠告してあ
げるべき立場だと思うのだけれど・・・・・
 
 ニュースは北朝鮮拉致被害者の親族の記者会見に場面が変わっていた。涙ながらに北朝鮮、政府への
憤りを露わにする人々。報道では拉致被害者11名中4名の生存しかないという。惨い事実だとまり慧は思
った。
 拉致の事実が明らかになったとき、わが国のトップは北朝鮮との国交正常化交渉の同意書に署名した。
時期尚早だとする声が多く挙がった。拉致問題を解決してからでもよかったのではないかというのがその大
半の理由だが、まり慧もその通りだと思った。国益を優先すれば仕方がないのではという解説者もいたが、
真に国益とはなんだろうとまり慧は考えた。
 人数の多少にかかわらず、たとえ国民一人でも人命にかかわることであれば、まずはそのことの解決を最
優先し余事をまじえるべきでないとまり慧は感じた。
 国民を大切にする国家の姿勢が対外的にも尊敬され、軽く見られない、そしてつけ入らせないという国益
を生むのではないかしら。ひいては国が犯した過去の過ちにも人の尊厳に基づいた、誠意溢れる対応が実
現するのではないかな・・・・・
 拉致事実を北朝鮮に認めさせ謝罪させたことは大きな進展だったけれど、そこに踏み止まって被害者の家
族が納得する誠実な対応を断固として北朝鮮側に要求すべきじゃなかったのかしら?政府は同意書に署名
してから後その交渉を行うと言っているけれど、それでは取り組み姿勢がどうしても希薄になるし、物事の順
序が違うように思う・・・・・
 日本という国は昔からそうだったけれど、もっと国民一人一人を大事に大切に慈しむべきじゃないのかし
ら・・・
 一部の有力者が舵を取る偏った国家主体ではなく、真に国民主体の国になれば・・・幸福な、世界から
尊敬され頼りにされる日本の本質が顕われそうな気がする・・・・・

 まり慧のもの思いを打ち破るように、電話が鳴り響いた。・・・もう、夜更けだった。
「もしもし・・・杉原で―――」
「シゲオか!寝とったん?」
 まり慧は電話を切った。イヤガラセ電話だった。そうだとわかったのは3回目に掛かって来たときだ。同じ
人が3回も間違えるはずがなかった。それに、その男の声にも心当たりがあった。
 ひと月ほど前、まり慧は紗李に頼まれてランの散歩に行った。マンションの入口を出たところで、リードを
着けていない、よく太ったパグが2匹、ランに群がってきた。飼い主の男は少し離れたところでそれを見て
いた。まり慧が咄嗟にランを抱き上げると、1匹のパグがまり慧の足に飛びかかってきた。驚いてしっしっと
蹴散らす真似をすると、男が凄い形相で、
「こらっ、なにがしっしっや!うちの犬にオマエ、なにしたんや!」
「何もしてませんよ」
「蹴ったやろ!」
「あなたも見てたでしょう!わたしの足に飛びかかってきたから追い払っただけよ」
「しっしっと言うたやないか!」
「言われたくなかったらマナーを守るべきじゃないの?・・・誰だって犬に飛びつかれたら、しっしって言いま
すよ―――犬が嫌いな人や恐い人もいるんだから」
「オマエ、犬を連れとって飼い方も知らんのか、ボケ!」
「あなたこそでしょう!」
「なにー!」
 相手の男は気色ばんだ。まり慧は身の危険を感じて警察の名を口にした。男がちょっとひるんだすきに、
まり慧はエレベーターに戻った。
 放し飼いにしていたのが悪いにきまっているが、まり慧が女なのをいいことに暴言のかぎりをぶちまけ暴
行にまで及びそうな男。いくらまり慧に力がなくとも、理不尽な男に頭を下げるわけにはいかなかった。
 それから数日して電話のイヤガラセが始まった。逆恨みもここまでくれば、異常だった・・・

 まり慧は今会社で若いパワーに弱肉強食のイジメを受けているが、近頃は景気も悪くなって一層人心が
荒み、様々な力に任せた悪事が巧妙に陰険に謀られ、一端が紙面やテレビを賑わしている。まり慧の身近
でも厭な出来事はいくつか起きた。

 三月も終わりの晩8時過ぎのことだった。まり慧はマンションの住人らしき男とエレベーターに乗り合わせ
た。男は入口付近に陣取り、まり慧の階がきてもそのままで、まり慧が身を細めて降りようとすると、突然
男の肘がまり慧の胸あたりを突くように、如何にも偶然であるかのように当たってきた。まり慧は一瞬訳が
わからなかったが、徐々に事の不自然さに気づいた。三村幸子にそのことを話すと、幸子も同じ思いをした
という。上等の背広を着込んだ、きちっとした身なりのサラリーマン風の破廉恥男を思い出す度に、今でも
まり慧は口惜しい怒りが込み上げてくる。

 また、こんなこともあった。
 二週間前のことだ。まり慧がいつもの胃薬をもらいに病院へ行って順番を待っていると、診察室から男性
のしわがれ声が切々と何かを訴えている。抗議しているようにも聞こえた。まり慧が聞くともなしに聞いてい
ると、
「先生、どうして急に薬を止めるんですか!」
「だから何度も言ってるでしょ・・・向こうからそろそろ止めてはどうかといってきてるんだ、――さんも安定し
ているしね」
「だけど先生はずっとこの薬を飲みなさいって、この薬のおかげで落ち着いているっていいなさったじゃない
ですか!」
「うーん・・・・・」
「わしはわかってるんですよ」
「何を?」
「どうして止めろといってきたのか」
「?・・・・・」
「この前の公費負担申請に行ったとき、保健師を叱りつけたんですよ、あんまり腹が立ったもんですから・・・
その仕返しですわ」
「・・・なぜ腹が立ったの?」
「メモも取らないで、同じことばかりダラダラ世間話みたいに聞くもんですから・・・若いくせにわしら年配の者
にも友達と話すような調子でですよ、失礼じゃないですか。・・・関係ない妻のことまで根掘り葉掘り、プライ
バシーの侵害もいいところでっせ。―――いくら医者代がタダになるからといっても許せませんわ・・・・・」
「――さんが文句を言ったせいじゃないと思うけどね・・・」
「じゃ、どうして急に止めろといってきたんですかね?!」
「まあまあ・・・落ち着いて」
 その後も男性の哀願調の抗議は続いていた。話の真偽はよくわからないが、まり慧は男性の逼迫した真
剣な口調に他人事でない同情を覚えた。保健師を注意したぐらいで命を維持している大切な薬を止められ
るとしたら、確かに大変なことに違いない・・・
 
 多くの女子高生が風潮に流されて、いとも簡単に処女を失う現代。家に閉じこもって幸いにもかろうじて純
潔を守っている桧川紗李にも、社会の濁りの魔手は忍び寄っていた。
「おばさん、彼氏紹介してあげようか?」
「彼氏?!・・・いえ、結構だわ」
「淋しくないの、独りで?」
「全然!」
「なーんだ・・・・・」
 紗李は期待がはずれたようなつまらなそうな顔をした。
 まり慧は最近紗李の様子が変わったと思った。今まではなんだかんだいってもほん娘娘していたのが、こ
の頃女のいやらしさみたいなものを感じるようになった。態度も妙にそわそわして落ち着かない。『淋しくな
いの、独りで?』と聞く目にも不純な色が滲んでいる。まり慧にすれば至極不愉快だった。 

「紹介って・・・あなた、まさか、出会い系とかいうサイトに?!」
 思わず目がつりあがったまり慧だが、心の中はまだ半信半疑だった。
「世の中には遊びたがっている男がうようよいるわ・・・十代から八十代までどれでも選り取り次第ってわけ
・・・女はお金とセックスを求めて、男どもにアクセスするだけよ」
「不潔な話は止して!・・・紗李さん、あなたもそんなものに近づいちゃ―――」
「わたしの彼氏・・Mよ」
 紗李は自分の携帯をまり慧の前に突き出した。
 強引に見せつけられた画面から、『いつになったらエッチさせてくれるの?』の汚らわしい一文がまり慧の
目に飛び込んできて、べっとり絡んだ。
「こんなもの見たくないわ!」
 まり慧は紗李の携帯を払いのけた。
「・・Mは三十二歳、妻子持ち、内勤のサラリーマン、仕事の合間に机の下からこうやってピンクメールを
送って来るのよ・・・ハハハ、おかしい!―――でも、わたしの写真を送ったら、美しいといってくれたわ」
「相手は愛も誠意もない、ただの肉欲だけなのよ・・・鬼畜同然の男だわ」
「・・・・・。それでもわたしは認められたいのよ、この顔をかわいいと言ってほしいの!・・・登校拒否の娘
なんか誰も相手にしないもの・・・Mが相応しいのよ、オチコボレには!」
「紗李さん、自分を粗末にしちゃだめよ・・・あなたを大切に思ってくれる男の人が必ずこの世の中にいる
のよ。その人が現れ―――」
「いるわけないじゃない!・・親だってわたしを無視してんだから・・・気休めはいい加減にしてよ!」
「あなたは秀頼を・・いいえ秀頼の生まれ変わりの出現を待ち焦がれていたんじゃないの?・・・わたしに
そう言ってくれたじゃない?」
「ハハハ、おばさんは妄想狂?・・・頭がおかしいんじゃないの?それともわたしが登校拒否だからバカ
にしてるの?」
「・・あなたは世間の誤った仮の姿に惑わされているのよ―――南無妙法蓮華経と唱えて!・・あの時、
あなたが命に感じた真実の感動を思い出すはずよ・・・紗李さん、あなたは千姫の―――」
「うるさい!黙れ!狂信ババアのオマエなんかと話していたら、頭が変になりそうよ!」
 正法の清らかな破折が、紗李の迷える生命に激怒を誘っていることはまり慧には分かっていた。が、
言わなければ紗李は救われない・・・
「紗李さん、あなた言ったでしょう・・・誰も知らないわたしのなにかをおばさんは感じてるみたいだって」
「それがどうしたのよ!」
「おばさんはね、この命に確かに感じてるの・・・あなたはとっても純真な人だわ、愛のないセックスに快
楽を覚える女の子じゃない。あなたの望む男性は、たった一人のはずよ・・・」
「Mよ!」
「Mみたいな鬼畜じゃないわ!・・・あなたには信じられないかもしれないけど、御本尊様を信じているわ
たしの魂は感じるのよ。紗李さんが、秀頼に死ぬほど恋焦がれて結ばれなかった千姫の生まれ変わり
だって・・・」
「バカ!キチガイ!・・・オマエだってオチコボレのくせして、カッコウつけやがって・・・この売春婦!」
「売春婦?!」
「オマエの家の回りを薄汚い男がウロウロしてた・・・客をこの家に連れ込んでるんやろ!」 
 まり慧は血が上った。顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「紗李さん、言っていいことと悪いことがあるでしょう、人を侮辱するのはいい加減にしなさい!」
 まり慧の激した震え声が終わらないうちに、平手が飛んでいた。
「他人の娘を殴るとはええ度胸やわ・・・このままでは済まへんで!」
 紗李は右頬を押さえながら、尋常じゃない怒りで飛び出して行った。
 翌日、ポーチを飾っていた植物が根こそぎ抜かれてなくなり、あとに緑のない鉢だけが無慚に残った。




                               




 (十四)
 メンバーと会社の辞めろ攻勢は七月頃いったん落着きを見せた。辛抱強い居座りが功を奏したのかと、
まり慧は人のいい喜びを抱いたものだ。
 ところが岡崎たちは、まり慧が辞めなければメンバー全員が辞職すると内々に会社に迫っていたのだ。
一種の脅しともいえる行為だった。
 事態は九月に入って急速に悪化した。係長の久島じゃ埒があかないと判断したのか、週ごとに課長、部
長、支社長が訪れて退職を要求した。無論、まり慧は首を振らない。事は支社だけの問題では済まされな
くなっていった。
 業務委託を発注する市役所は諄也の会社にとって大切な得意先だ。大きな顧客を失えば多大な損失を
被る。メンバー全員が辞めて穴を空ければ、会社としても損害賠償を役所に支払わねばならなかった。ま
り慧を辞めさせなければ、責任の火の粉は、一存で入社させた諄也に及ぶのは必至の成り行きだった。
 非があるのはどう見ても力のごり押しで暴走しようとする若いメンバーだが、会社の誰もそんなことは問
題にしなかった。悪いのはイジメを受けているまり慧なのだ。まり慧の協調性に問題があったからそうなっ
たと端から決め込んでいた。理不尽な話だ。
  
 破綻は突然――寧ろ因果の理からは当然だった――諄也とまり慧に襲いかかった。
 二人が魂のどこかで予感していた結末はあっけなく、しかも否応なしにやって来た・・・・・

 九月も末の週末、市役所の終業チャイムが鳴る1時間前のことだ。
 この頃のまり慧は仕事の要領も掴み、スピードもそろそろアップしようとしていた矢先だった。毎週支社
の面々から退職を迫られる精神的重圧は耐えがたいものだったけれども、諄也を信じ抜いてその日その
日をなんとか乗り切っていた。
 ・・やれ、やれ、今日もあと、もうちょっとよ・・・頑張るぞ!――まり慧は退社間近の嬉しさを張りつめた
表情の下に隠し、慣れた手順で転入届を処理していた・・・そこに、課長補佐と支社長が現れた。
「杉原さん、会社の人があなたに話があるようだから行ってくれませんか」
「・・・話?今勤務中ですよ、仕事が終わってからにしてください」
「僕が許可してるからいいんだ、行きたまえ」
「わたくしのお給料は市民の税金で支払われているんでしょう?なら、1分1秒も無駄にできないはずです。
・・・話といっても仕事のことじゃなくて辞めてくれという例のお話、課長補佐さんもお分かりじゃないですか。
・・・わたくし、退職に関するお話には一切応じたくありません。これは労働者の権利として申し上げている
のです。・・・課長補佐さんはわたくしに仕事をさぼらせ、わたくしの権利を奪う行為を敢えてされるとおっし
ゃるんですね?」
「い、いや、僕は・・・。派遣社員の管理は市はタッチしない契約だからね、あとは支社長さんに任せますよ」
 課長補佐は逃げるように、そそくさとその場を離れた。

「杉原さん、今日は喜山社長も来られているんだ、奥さんの専務といっしょにね」
「えっ?!」
 そんな!・・・来るはずがないわ、諄也さんが!・・・・・
 まさかといったまり慧の表情を支社長は冷ややかな、それでいて探るような面持ちで見下ろしている。
「これは社長命令でね、来てもらわないとこの場で解雇ということになるけど・・・?」
「解雇?!・・・」
 
 諄也に会うのはホテルの料亭で別れて以来一年ぶりだった。あの時よりもっと、諄也に逢いたい思いが
募っていたはずのまり慧だった。よもやこんな形で再会を果たすとは・・・・・今まで積み上げてきた楽しい、
幸せな愛の積木が音を立てて崩れて行くのを・・・信じまいと目を逸らして拒絶しようにも、前を歩く支社長
のダークスーツの濃紺が容赦なく現実となって、まり慧の目に突き刺さって来るのだった。

「課長補佐さんにお願いして3階の会議室をお借りしてるんだ。ここで社長たちはお待ちになっている」
 そう云いながら支社長は第一会議室のドアを開けた。彼に続いてまり慧も中に入った。
 部屋の窓側に、ブラインドの隙間から差し込む西日を受けて、中央に諄也、右隣に妻の専務らしき女性
(年は三十代前半と思われた。自分より若いのに、まり慧は意外だった)、左には支社長が座った。

「杉原君、困るね、トラブルを起こされたら」
 諄也がまり慧を見た、開口一番がこれだった。
 まり慧は驚きの表情を隠せなかった。目を不機嫌そうに細めて口をへの字に歪めた諄也の顔を凝視した。
いとしい夫の顔を見たら泣き出してしまうのじゃないかと思っていた、まり慧の思惑は360度外れた。外れた
どころか、裏の諄也を微塵も感じさせない目の前の男に烈しい反発のテンションが上っていった。
「トラブル?」
「メンバーが迷惑してるじゃないか」
「どんな迷惑ですか?むしろ、わたくしの方が被害者ですわ。岡崎さんたちからは色々なイヤガラセを受ける
し、会社からは理由のない退職を執拗に迫られるし・・・」
 専務の喜山鈴子はまり慧の毅然とした話っぷりに目を白黒させて信じられないといった様子だったが、たま
りかねたように口をはさんだ、
「なによ、その調子!社長に対して取る態度なの!偉そうにして・・・メンバーが怒るのも無理ないわ。ねえ、
支社長」
「はい、専務」
 顔中ゴマスリ一辺倒の笑い皺を作って相槌を打つ支社長。
「奥さん、わたくしのどこが偉そうなんですか?ありのままにはっきりお話しているだけだと思いますが」
「この人、なにもわかっていないのね、世の中の仕組みが・・・あなた、誰にお給料を貰っているのよ?」
「喜山オフィスですわ」
「だったらどうして言うことが聞けないの?ありがたいお給料を出している会社の云うことに素直にはいと
従えないの?元はといえば、あなたがリーダーの岡崎君に大声で文句を言って逆らったからメンバーが
怒ってるんでしょう。メンバーがあなたといっしょに仕事をしたくないというのも当然よ」
「・・・いくらお給料を貰っているからといって、理に合わないことに従えと云われても納得がいきません。な
にもかも会社や上司の言うことに服従しろというのは、奥さん―――」
「いい年して、この人礼儀も知らないじゃない?専務さんと言いなさいよ!」
「専務、あなたの考えは横暴すぎるんじゃありません?封建社会の遺物ですわ。わたくしがお給料を頂くの
は労働の対価として当たり前のことで―――」
「労働ってね、あなた、岡崎君たちの足をひっぱっているんでしょう、人並み以下のスピード処理で」
「メンバーがそう言ったんですね・・・若いあの人たちは短絡すぎて3ヶ月の経験の差が理解できないんです。
それで自分達がわたしの分まで働かなくちゃいけないと思って腹が立つんでしょう」
「そこまで自信たっぷりに言い切るんだったら、3ヶ月経てばあなたもメンバーと同じレベルに達しているの
よね、そうだわね?」
「この仕事は慣れれば慣れるほど早く処理出来るんです。同じスピードに追いつくには半年では無理かも
しれま―――」
「なに言ってるの!それならいつまで経っても迷惑がかかるじゃないの。ああ言えばこう言う、こう言えばああ
言って屁理屈ばかり並べて口ごたえしてくるんだから・・・なんて人なの!」
「若いメンバーの能力が君にあるとは・・・実務経験もないし、目や反射神経も衰えているだろうし・・・考えにく
いね」
 本気で怒り出した妻の仇を取るつもりか、まり慧の一番痛いところを知っててついて来る、ねっちりと陰険な
諄也の攻撃だった。
 まり慧は情けなくて涙が出そうになった。あれほど愛していると言ってくれた諄也がこうまで自分を槍玉にあ
げるとは思ってもみなかったのだ。心底諄也に憎悪を覚えた。
「能力ってスピードのことですか?」
「まあ、それもあるだろうなあ、正確といった面とともにね」
「わたくし、あんまり告げ口のような真似はしたくはないのですが、社長さんがそこまでおっしゃるなら何もかも
包み隠さず申し上げますわ」
「なに?」
「メンバーの中には休憩時間を何十分もオーバーしても平気なちゃらんぽらんもおりますわ、リーダーも一向注
意する気ないし・・・発禁解除をごそっと抜かしたり、離婚を婚姻に処理したりのとんでもない間違いとか、職務
中職員にならってベラベラとだべったり、要するに若い人はやることは速いかもしれないけどいい加減さが目立
つんです。慎重さに欠けるんですよ。そんなこと、会社はちっともご存じないでしょう」
「・・・・・。だがね、君は協調性がないじゃないか、専務もそれを指摘しているんだろう?」
「わたくし、人並みにはあるつもりですわ」
「じゃ、どうしてこんなイザコザが起きるんだ!」
「メンバーに、というか、リーダーの器量に問題があるんじゃないですか?」
「どうしてだ!」
「社会で働く全ての人間が上司にペコペコするゴマスリじゃないんです。上司に勇気を持って自分の信念を伝
える骨太の部下もいるんです。そういう部下を活かすも殺すもひとえに上司の手腕に掛かっているはず。岡崎
さんが異見を唱えたわたくしを受け入れられず、みんなと寄ってたかって職場から締め出そうとしたこと自体、
協調性がないといえるんじゃないですか?」
「つべこべ言うんじゃない!とにかく君が辞めなければメンバーが辞めると言ってるんだ。そうなったら会社は
大損だ」
「会社はメンバーのわがままを通して道理を曲げると言うんですね。目先の利益と引き換えに非道な解雇をや
るとおっしゃるんですね。・・・喜山さん、あなたも御本尊様を信じて仏道修行をしてる身、悪行の報いはよくご
存じのはず、それともわたくしみたいな取るに足らぬ者の首を切ったところで何の罰も当たらないと・・・!」
 次第にまり慧は感情的になって諄也の表裏の区別もつかなくなりだした。迂闊な事に涙まで滲んできた。
 そんなまり慧に表裏の筋目を正すかのように、諄也はことさら表の諄也になり切っていった。
「杉原君、君のような人間が会社に残ってどんな利益が見込めるんだ?はっきり言わせてもらうが。本来な
ら君みたいなケースはうちは取らないんだ。以前ちょっと世話になった杉原さんの娘さんということで僕は入
れたがね。君も、もうちょっとその辺の事情が飲み込める人だと思ったがな。―――なあ、坂野君」
「はい」
 支社長はこの恩知らずめといった憤然たる表情でまり慧を睨みつけている。お門違いも甚だしい。まり慧は
唇から血が出るほど口惜しさを噛みしめた。 

「諄也、あなたが声を掛けたんでしょ?」
 喜山の妻が人前で諄也と呼び捨てにしたのにはまり慧も耳を疑った。家庭だけじゃおさまらず、会社でも夫
を尻に敷きたい女らしかった。出来の悪い鈴子に諄也は甘い顔でにこにこしている。そうして、とぼけ顔で、
「いいや、どうだったかな・・・?」
 いいかげんにして!!人を侮辱するのは・・・表の諄也さんかどうか知らないけど!!
 体力も地位も金もない、ないない尽くしのまり慧が唯一持っている誇りをうそも方便で軽く踏み躙られて、
この女の怒りは一瞬、裏の諄也を暴露してやろうかと思ったほど追い詰められた、
「喜山さん、正直におっしゃい!・・・ホテルにいたわたくしに突然声を掛けられて、どうされているんですかと
親身に尋ねられたじゃありませんか」
「・・・・・」
「ほんとに人がいいんだから、諄也は・・・女には格別のやさしさで接するらしいし・・・「葉むら」の仲居が言う
くらいだもの」
「『葉むら』の仲居?!」
 諄也の目がきらっと光った。
「そうなのよ、この間友達と店に食事に行ったとき、あなたも知ってるあの若い仲居が出てきて、『旦那様、
杉原さんとかいう女の方と去年の秋頃来られて、仲居も部屋に入らせないほど随分と親密なご様子でした
よ』って―――」
「借金の話をしてたんだ」
「借金?」
「この人が借金して困っていたから、500万用立ててあげる相談をしてたんだ」
 まり慧の目がつり上がった。
「諄!―――」
「杉原さんは結構ですと遠慮されていたがね」
 諄也はじっとまり慧を見詰めた。「何も言うな、おれに任せろ」と目が強く訴えている。
「仕様のない人ね。わたしの知らない所でオタスケマンごっこをやってたわけね。で、結局恩を仇で返され
て、このトラブルよ。やっぱり、わたしがそばについていなきゃヘマばかりやらかすのよ、諄也は。―――
さて、今後のことだけど」
 鈴子は世話の焼けるダメ亭主だといわんばかりの目付きで諄也を見下すと、すっかりマイペースでこの
場を仕切りだした。呆れた喜山の女房だった。
「杉原さん、あなたのことはうちの会社でもホントに迷惑しているのよ。諄也とのヘンな噂が持ち切りでね・・・
あなたがうちの人に体を売って入社したんじゃないかって。・・・あなたには今日限りで辞めてもらうわ。解
雇します。気に入らないんだったら裁判でも何でも起こしてちょうだい。それから、あなたも仕事がなかった
ら困るわよね、うちも500万返してもらわなくちゃいけないし・・・よかったら、わたしの友達の持ちビルの清
掃員の口、紹介するけど」
「結構です。・・・解雇はお断りします、される理由はありませんから。ですが、辞職はします。こんな無茶苦
茶な会社、わたしの方でまっぴらごめんですわ!」

「杉原君、僕が調べたところ、君の言うように解雇に値するような落ち度は何も見当たらなかった。だが、こ
のままだと会社も困るんでね、辞めてもらいたい。それでね、君に貸した500万、君もイヤな思いをしただろ
うから慰謝料として受け取ってくれ」
「あなた!」
「それでいいかな?」
「借金は耳を揃えてお返しします。わたしは慰謝料が欲しくて今まで辞めなかったんじゃないんです。わたし
は・・・!!喜山さんを信じて―――」
「なんか君、感情的になってるようだから、話は終わりに―――」
「待ってください!喜山さん・・いえ、喜山社長」
「君、興奮してるみたいだよ」
「大丈夫です。・・・わたくし、社員・・社員だった者として一言、あなたに言いたいことがあります」
「なにかな」
 諄也は苛立つように時計を見た。
「喜山さん、あなたそれでも一企業の長たる社長ですか!・・こんな500万ぽっちのはした金で、抵抗でき
ない一社員になにもかも理不尽な責任を押し付けて首を切ろうなんて・・・あなたには長たるプライドがない
の!責任がないの!・・・処罰されるべきは今回のトラブルの張本人であるメンバーと、この人たちのわが
ままの言いなりになって適切な指導もしなかった会社の上司のはず!・・・わたくしがトラブルの原因として
解雇されるなら、まずはメンバーが先に解雇されるのが然るべき筋です。会社がそれで大きな損害を被っ
て、わたくしを雇い入れたあなたの責任まで問われるなら、最終的にあなたが潔くお辞めになればよろしい
じゃないですか!だいたい、あなたがわたくしを雇い入れたんでしょう?なら最後まで責任を持つべきです
よ。いくら商品価値が薄いからといって、犬や猫の子を放り出すような真似は人として誠意の欠片もないじ
ゃないですか。あなたの頭には儲けと組織防衛のことしかないのでしょう?その為なら卑劣な弱い者イジ
メも平気で出来るんですね。あなたは社員の生活を守っていくべき社長の器じゃありませんわね!」
 まり慧は腹の底から怒っていた。表の諄也であろうがなんであろうが、自分の愛した男がこんな反吐が
出そうな腐った奴だったと思うと、やりきれなく、情けなかった。が、相手はいっても社長だ、腹の中の憤
懣を全部ぶちまけてしまうと、足ががくがく震えてきた。
「杉原君、家内も指摘したように君の失礼は相当なもんだね。が、まあ、今後の参考にさせてもらうよ。そ
れでだ、あの500万は今の結構なご意見に対しての報酬ということにしよう」
「桁が多過ぎます!」
「それだけの価値を僕は認めてるんだ」
 この一瞬、諄也は裏の諄也の顔になった。まり慧にしかわからぬ、ほんの一瞬だった。




                               




 (十五)
 その晩、まり慧は勤行が出来なかった。どうしてもお仏壇の扉を開く気がしなかったのだ。
 諄也を御本尊様のお護りと信じぬいて来た一年の月日が、まり慧には何がなんだかわからなくなって
しまった。

 週が明けて月曜日、朝起きてももう、仕事に行っていたときの安定した緊張感はまり慧になかった。
一日にして職を失った心もとない虚しさをもてあますばかりだった。それにつけても諄也を頂点とする会
社の非道に恨みが募る。
 まり慧の懐具合も今月おりる給料を足しても100万円足らずの心細さだった。これから生活はどんど
ん逼迫していき、行く所も帰る場所もない、糸の切れた凧みたいなフワフワ定まらぬ生活がまた始まる
のだろう。・・・一年前のまり慧に逆戻りしていくのだ。

 午後9時をまわった。まり慧はメールを打たなかった。打つ気力もなかった。
 30分ほど経って、FANTA MEMORYが待ちくたびれたように鳴り出した。今の感情はどうであれ、いの
ちに染み込んでしまった、あのやさしい幸福が蘇ってくる。・・・だが、金曜日の諄也が忘れられない。生
乾きの傷に触れられるみたいに、じくじくまり慧を苦しめるのだ。あのときのショックを表の諄也だから仕
方がないと割り切るにはまり慧の神経は脆すぎた。
 メールを開きかけてまり慧は止めた。・・・諄也を受け入れることは出来なかった。
  
 水曜日のテレホンデーが巡ってきた。それでもまり慧は頑として掛けなかった。諄也から掛かって来る
だろうと安易に思ってはいたが。
 意外にも電話はなかった。まり慧は自分から掛けてみた。・・・流れて来たのは現在使われておりませ
んという機械音だった。
 文字どおり、気の遠くなる絶望がまり慧に月曜日のメールを開かせた・・・・・

     まり慧、許しておくれ・・・随分と辛かったろう。
     おまえが傷ついているのじゃないかと、そればかりが心配だ。
     仏様を信じ抜いて、なんとか立ち直って欲しい・・・手前勝手に聞こえるだろうけど、お
     願いだ!
     言い訳はしたくないが、ああするより仕方がなかったんだ・・・妻や会社を守る為にも
     ・・・おまえを真に守る意味においても。
     おれの行動が軽薄だったことはよく自覚している・・不用意におまえにお金の援助をし
     たり・・会社に入れたりして・・・・・悪いことをしてしまったと思っている。
     きっと、メールや電話の交信だって間違っていたんだ。
     おれはおまえかわいさに未熟な我見で表裏を混同させてしまったんだよ・・・許してくれ。

 諄也のメールにはまだ先があったが、まり慧はもう読むことができなかった。二人の愛が充満した携帯
を握ったまま、嗚咽をあげてその場にうずくまってしまった。
 過去のものとなった自分と諄也の愛の痕跡をもろとも叩き壊してやろうと、まり慧のその手が何度も振り
上げられ、際どく止まった。周りの手に触る物手当たり次第が激情のままに壁や床に投げつけられた。物
や破片が空に舞い四方に飛び散った。自暴自棄に暴れまわる己の姿になおのことひた落ちて行く絶望
が漲るまり慧だった。
 諄也に導かれて開花した、命にも等しい愛欲をいまさら一方的にシャットアウトされる恨みつらみに、ま
り慧は地獄の相となってのたうちまわるしかなかったのだ・・・泣きつかれて暫しの慈悲深い眠りが催して
来るまで・・・・・

 まり慧のような女が己の全てを賭けた愛に去られる苦しみは・・・裏切られる(まり慧の本心はどこまでも
諄也を信じ抜きたかったが、不運な現実はそれを不可能にしていた)嘆きは、己の純潔を汚される屈辱に
自我をも破壊し、己の存在すら許せなくなりかねないほど深刻なものだった。
 幸いにも自殺や発狂といった事態を紙一重で免れているのは、まり慧の生命の奥深いところで妙なる仏
性が不可思議な護りをしているからだろう。まり慧の生命は意識しないところで、御開扉の時に授かった『
たとえどのようなことがあっても諄也を信じ、どこまでも諄也について行きなさい』という御仏智を刻みつけ
ていたのだ。
 とはいえ、まり慧の目に映る現実は否が上にも諄也や御本尊様への不信を募らせることばかりだった。
 
 眠れぬ夜が続いた。まり慧は正気じゃいてもたってもいられないほど怒りと悲しみ、不安の三つ巴の苦に
昼夜なく責め苛まれた。苦悶を和らげる鎮痛剤的アルコールが唯一の救いとなった。まり慧が酒の力に溺
れ呑まれていったのは、生きる目処とて全く立たぬ、頼る者とて誰もいない孤独な貧女の自然の成り行き
だったかもしれない。

 朝か昼かわからぬ時間に起き出すと、まり慧は勤行を二つした。前日の三座とその日の五座をいっしょ
にするのだ。
 お経を読んでいると、煩悩の嵐が障魔となって何度も襲ってきた。御本尊様に向かって哀れにも修羅の
形相となり、頭を殴りつけては抱え込む、突如として泣き叫び怒鳴り散らす・・・・・まり慧の地獄界がこれで
もか、これでもかみたいに表れて来るのだ。
 苦しい勤行が終わると、まり慧は台所に座り込んで酒をあおった。飲んでは眠り眠っては飲む一日を送る
のだ、女の泣き鬼になって。
 日毎に沈んでいくまり慧の命は今にも生死の一線を越えてしまうにちがいない、風前の灯火より危いはか
なさだった。


 酒屋の店先の自販機からカップ酒を取り出そうと、かがんでいるまり慧の耳に誰かが呼んでいるのが聞こ
えた。体がだるくて頭がガンガンしていた。声はまり慧の遠い記憶の中からしているようにも思える。酔っ払
っているのだとまり慧は合点した。
「まりちゃん!まりちゃん!」
「えっ?!」
今度ははっきり聞こえた。・・・信一だった。
「・・・信ちゃん・・・どうして此処に?」
「まりちゃん、だいじょうぶか?・・・足がふらふらしてるで」
 信一は半信半疑といった、呆れたような変な笑い方をしている。
 まり慧はびっくりしたように信一を見詰めていた。この場に信一がいるのも驚きだったが、五百円玉ぐらい
の血の染みが点々とTシャツやズボンについているのも気になった。
「その血・・どうしたの?」
「途中で鼻血が出たんや・・・もう止まった」
「そう。・・・そんな格好やったら・・・あそこのスーパーでTシャツだけでも買った方が―――」
「ええんや、気にせんとって」
「・・なんか飲んだ方がいいわ・・だいぶ血が出とるみたいやから・・・家へ来る?」
「ええんか?」
「・・うん・・・・・」 

 信一と並んで歩き出したときだ、まり慧は安ウイスキーの大ビンが入った袋がやけに重苦しく感じた。と、
心臓をひねくられるような苦しさが走ったかと思うと、動悸が息も絶え絶えに始まった。まり慧は胸を押さえ
ながら崩れるようにその場にうずくまってしまった。
「どうしたんや!」
「・・胸が・・苦しい・・・」
「大丈夫か?・・・救急車呼ぼか?・・ええ?まりちゃん!」
「ハアッハアッハアッ―――」
 信一が側らで不安にヤキモキしている間にもまり慧の肩の喘ぎはだんだんと緩やかになってきた。
「だいぶおさまってきた?」
 まり慧はうなずいた。突然の発作に呆然とした様子だ。
「医者に診てもらった方がええで」
「検査しても異常がないらしいの、自律神経の失調やないかて・・・・・」
「アホな!ヤブ医者とちがうんか」
「・・なんでこんなふうになるのか・・・わたしもわからへん・・・」
「包み、貸してみ、持ったるわ」
「ありがとう・・・悪いな、信ちゃん」
「なにいうてんねん、これぐらいのこと・・・あっ、ウイスキーか、まりちゃん、アカンでぇ!」
 まり慧はバツが悪そうに口元だけが少し笑った。うすら淋しい、薄命の漂う横顔だと信一は思った。

「ありがとう、そこに置いてくれる?」
「なんや、これ?!・・・まりちゃん、いつからキッチンドリンカーになったんや?」
 台所の板場にはカップ酒やチュウハイの空缶が酔いっぱなしにだらしなく転がっていた。信一は手
近にあったスーパーのビニール袋にそれを放り込んでいった。

「何があったんや?」
「・・・・・」
 まり慧は妙にしんどい顔付きで信一が片付ける様子を見ていたが、たまらなくなって食卓のイスに
腰掛けた。
「仕事、行ってるんやろ?」
 まり慧は首を振った。
「辞めたんか?」
「いいえ・・・首になったわ」
「いつ?」
「先月の終わり・・・」
「どうするんや、これから・・・ここの家賃、だいぶ高そうやし・・・貯金も貯まってへんやろ、半年やっ
たら?」
「・・・・・」
 まり慧の暗い視線が台所の隅に置いたウイスキーの方へちらちら行く。がぶ飲みしたい衝動が
走った。
「実はな、俺も先々月リストラされたんや。今、失業手当で食べてる。・・・仕事が見つからへんか
らちょくちょく此処へ来てたんや・・・なんか、まりちゃんに会いたくなってな・・・」
「知らなかったわ、全然」
 家の回りをウロウロしていた男って信ちゃんのことだったのかと、まり慧は紗李の話を思い返し
ていた。

「どうするんや、これから?」
 信一は繰り返した。ちょっと迫るような強引さがあった。
「あてはないけど、仕事を探すわ」
 その気力が自分に絞り出せるかどうか、もとより自信がないのはまり慧が一番わかっていた。
「まりちゃんは無理やわ・・・体がこんな調子やのに働けるはずがないやろ。―――俺な、退職
金が出たんや・・・400万あるで・・・・・」 
「400万?・・・三十年も働いて、たったの・・・昼も夜も見境なく働かされていたのに・・・」
「しょうがないわ・・・中卒やもんな。―――だけど、暫くはこの金で暮らせるやないか」
 信一はまり慧の返事がすでに分かっているような、ある種の傲慢さが窺われる表情を微かに
見せた。
 まり慧はそれを見逃さなかった。信一のその顔がとても厭だった。自分をいたぶる時のあの目
の色と共通するものがあったからだ。・・・が、それよりなにより、まり慧は哀れでならなかった。
長年勤め上げた仕事を失った上に雀の涙ほどの退職金を受け取っている信一が。

「信ちゃんが初めて手にする大金や、一人でだいじに使い・・・今の時代やし、仕事も見つけにく―――」
「そんないい格好ぬかして、この金がなかったらお前だって生きていかれへんやろが!」
「信ちゃん、怒らんといて!・・・わたしはほんまにそう思てるねん!」
 まり慧のくしゃくしゃにした泣き顔、懇願する声の調子、決まって発する『信ちゃん、怒らんといて!』、信
一はあの頃の自分に戻っているのに気づいてうろたえた。
「ご、ごめん、悪かったわ・・・きつい口調になってもて・・・」
「わたし・・・信ちゃんと暮らしても苦しめるだけや・・・夫婦生活がでけへんから・・・・・」
 信一の黒ずんだ顔が一層暗くなった。 
「・・・俺がいなくても食べていけるのか?」
「・・・・・」
「お前はちっとも変ってへんな・・・あの時と。―――純粋やわ、まりちゃんは」
「・・・・・」

 信一はフーッと大きな息をもらすと、まり慧と向かいあってイスに腰掛けた。顔がもとの穏やかな信一に
戻っていた。
「初めてまりちゃんと出会ったとき、俺、お前の純情に惚れたんや。そりゃ死ぬほど好きやったで。・・・2、
3年して熱が醒めてくると、お前が結婚前に正直に告白した不倫のことが気になりだしてな、相手の男を
調べ上げた。そしたら若い女と遊びまわっているセックス狂の色爺やとわかった。こんな奴にだまされた
お前がアレが好きな薄汚い女に思えてきてな・・・お前の純情までが俺にぶりっ子してる気がして許せん
ようになった。・・・アホや、俺・・・世間の汚れた目でお前を見てしもた・・・世間に負けたんや!」
「信ちゃん・・・」
「まりちゃんの純愛を裏切った俺は・・・あの色爺といっしょや!」
「ちがう!それはちがうわ!・・・信ちゃんはあんな汚れた畜生なんかじゃない・・・過ちを犯したわたしを許
せなかっただけなのよ・・・わかっていたのよ、それは・・・だけど―――」
「俺を恨んだやろ・・・」
「・・信ちゃんの求めるものとわたしの求めるものが違っていたんだと思う・・・信ちゃんは汚れたこともない
徳に満ちた女性を求めていたのよ・・・私はといえば、永遠の愛で包んでくれる人がどうしても欲しかった・・・
二人の願いが食い違っていたのよ」
「・・徳のある女性て、俺、さんざん悪いことばかりしてきたのに・・・」
「でも信ちゃんの本当は・・・真実の信ちゃんは、徳を求めてやまない人じゃないかという気がずっとしてた
・・・今もいのちに感じてる」
「いのちに感じる?」
「南無妙法蓮華経と唱えていたら、いろんな真実が魂に見えてくるの・・・」
「南無妙法蓮華経?」
「ありがたい仏様の御名よ」
「・・・南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――」
 信一は不思議そうに唱えていた。そうして、まり慧が教えもしないのに合掌して祈り出した。暫くそうして
いたが、何かをふっ切ったように、
「まりちゃん、400万あげるわ」
 唐突だった。
「えっ?・・・・・」
「いいんや、いっしょに暮らさなくても。・・・お金だけつこて。・・・お前が俺を生理的に受けつけんのと同じ
や、俺もお前がアレを許しても、あの爺を思い出して本能的に苛めてしまうと思う。かといってさせへんか
ったら腹が立つやろしな、いっしょにいたら・・・二人は離れてる方がええんや」
「・・・400万は貰えない・・・信ちゃんが生きていく為に大切なお金やから」
「お前だって金がなかったら、生きていかれへんねんで!」
「かまへん!・・・死んでも。―――そのお金を取ったら、信ちゃんがあんまり可哀相すぎる!」
 信一は信じられないといった表情でまり慧の思い込んだ顔を見詰めていた。
「俺が苛めていた嫁はんが・・・こんなにも俗の心を持たん女やったとはな・・・・・今になって気がついた
わ、俺」
 信一は淋しく笑った。

 まり慧が入れてやったジュースをおいしそうに飲みほすと、信一は帰っていった。
 帰り際に、
「まりちゃん、ほんまに大丈夫か?」
「うん・・・わたしには御本尊様が・・・」
 まり慧はちょっとうつむいて顔を上げた。心に渦巻く御本尊様への不信と恨みが、信一に面と向かって
言い切る勇気を一瞬躊躇わせた、
「・・ついてるさかい・・護ってもらえるし・・・・・」
「・・そうか・・・元気でな、体に気いつけよ。―――ほな、帰るわ、さいなら」
 そう云って、服の汚れも無頓着に白い歯を見せて帰っていく信一を、我が身の哀れも忘れてまり慧は
不憫になってくるのだった。なぜか血の染みにも不吉な悲しみを覚えたものだ。・・・虫が知らせたとで
もいうように。
 まり慧が生きている信一を見たのは、それが最後になった・・・・・




                               




 (十六)
 信一が帰ってから四日ほどまり慧は酒を飲まなかった。やり直そうという意欲が彼の思わぬ真心で芽生
えたからだ。男女の感情は持てなくなったといっても長年連れ添ってきた夫婦だ、情愛が消滅したわけで
はない。ひょっとして信一が男と女の仲を超えて、人間として互いに尊重しながら肩を寄せ合いひっそり生
きていくことに賛同してくれるかもしれない・・・そんな夢みたいな期待がまり慧を慎ましやかな幸福にいざ
なったのだ。
 信一は四十五歳、壮健な男盛りだ。まり慧の願望が如何に酷なものか、身勝手と思い知るのに僅かな
日数でこと足りた。
 まり慧は前にも増して酒を飲んだ。強いのを無理にあおった。この女の生きる気力は急速に減退してい
くしかなかった。 

 明日から十一月の声を聞こうかという晩秋の或る日、その日も善と魔がせめぎ合うぎりぎりのお勤め
を終え、まり慧は台所で飲み始めた。ウイスキーのストレートをひと口ふた口ボーッとする頭で含みなが
ら、唱題の時、御本尊様の『妙』の御字がキラッと光ったのを思い出していた。御本尊様を疑い、諄也を
恨み抜き、荒み切った己のすべてを見通されている御本仏様の御照覧に慄きを感じずにはいられなか
った。
 
 まり慧はふらつく足取りでポーチに出た。紗李がそれだけは引っこ抜かなかった金木犀の鉢がドアの
側らにあった。6月に植えたばかりの幼い木で今年は咲かないだろうと諦めていたが、思いがけずここ
1週間で蕾を吹き五分咲きになっていた。可愛い小花の甘酸っぱい香りに引きつけられるように、まり
慧は日に何回か千鳥足で降り立った。
 
 この馨り 遥か昔へ 我を呼ぶ あゝ懐かしく 愛しい故に

 去年の花咲く時分、まり慧が諄也を想って詠んだ歌だった。金木犀の切ない芳香が、生命に刻まれた
忘れようにも忘れられない二人の過去世の愛欲を思い出させる、そんな心境を歌ったのだ。
 花の香を嗅げばこの歌が直口の端に上りそうになった。その開きかけた口を塞いでしまうように、まり
慧は持っていたグラスのウイスキーを一気に飲みほした。
 すーっと内臓が落ちて行く感覚が走った。まり慧は『もう、だめだ・・・』と直感した。中に入ってドアを閉
め、ロックするのと体が揺らぐのとが同時だった。グラスが足下で砕ける音をどこか遠くに聞きながら玄
関の三和土に崩れ折れていった。

 遠のく意識の際でまり慧は死を覚悟した。刹那、『御本尊様、諄也さんの所へ行かせてください!』と切
願した。そのとき、
 『お題目を唱えるんだ!』
 緊迫した声がまり慧の叫びを聞きつけたかのように心に聞こえてきた。諄也だった。不思議に思う猶予
はなかった。
 まり慧は微かに声を出してお題目を唱えた、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無―――」
 唱えるうちにいったん戻りかけた意識はすぐ、一気に急激に遠のいていった。そこにいるはずもない諄
也の強烈な不安をまり慧は瞬間感じた。
 体はもうびくとも動かなかった。意識だけがどこかをさまよっているのがわかったが、まり慧はどうする
こともできない・・・・・

 どれくらい経ったか、おそらくほんの僅かな時間だったに違いない。
 まり慧の意識は暗く寒いようなところを漂っていた。自分の肉体が死に一歩一歩近づいているのを無力
にぼんやり感じた。・・・呼吸がだんだん弱まり、やがて止まり、そのうち心臓も停止するのだろう・・・・・
 そのとき体の深い所で何かをぐいっと引っ張り上げられる感覚をまり慧は覚えた・・・何かとは深い昏睡
に落ちた意識だったかもしれない、不可思議なる力がアルコールの毒を中和させて意識を強引に覚醒さ
せたのかもしれない・・・・・まり慧は死が生に切り替わったことを知った。
『・・諄也さんの祈りが・・助けてくれた・・・・・』
 咄嗟に生命がそう悟った。意識がないはずのまり慧の頬に笑みが浮かんだ。生命の歓喜だった。
 暫くして、大きな息をフーッと吐くと、まり慧は意識のない昏睡から蘇生した。
 愛の確信を得た満ち足りた寝顔で、まり慧は泥酔の深い眠りに入っていった・・・・・


 夜になって、まり慧は三和土の冷たさに一度目が覚めた。朦朧としてベッドに移りまた眠り込んだ。結
局目覚めたのは翌日の夕方だった。30時間眠り続けたわけだ。
 晩秋の闇は早い。暗い静けさの中にまり慧の息づかいだけが安らかに聞こえた。頭に激痛が走る。
昨日の危い出来事は夢ではなかった。・・・あの不思議な体験も、きっと。

 まり慧の記憶に意識が急降下していく不気味な体感がこびりついていた。今更ながら恐かった。
「諄也さん・・・あなたが助けてくれたのね」
 あの時、心に感じたリアルな諄也が恋しい。互いが触れ合うほど側にいる夫婦よりも、もっと身近
に感じた夫をまり慧は忘れられなかった。
 おかしなことに今だって・・・・・自分を見詰める諄也を意識しているのだ。本当に変だと思ったがま
り慧にはさっぱりわけがわからない。不思議といえば不思議な感覚だった。
「・・わたしを見ているのは・・・諄也さんなの?」
『おれだ』とどこかで云ったような、聞こえてくるような・・・・・まり慧は気がした。
「どこにいるの?・・・出てきて」
『まり慧・・・ここだよ』
 諄也の声はまり慧の心から発してきた。
「テレパシー?」
『違うんだ・・・』
「じゃ、なぜ・・・声が聞こえてくるの?」
『おまえの生命がおれの生命の中に入ったんだよ・・・おれたちのいのちが御本尊様の力でひとつに
なれたんだ・・・二人の悲願だった魂の結合が漸く叶ったんだよ、やっと一体になれたんだ』
「一体?!・・・この肉体が死んでも・・もう二人は離ればなれにならないの?」
『そうだ、仏様を信じている限り、永遠にね・・・・・おまえは完全におれのものになったんだ』
「・・完全に・・あなたの・・諄也さんのもの・・・・・?」
『愛しているんだ!・・・本当に、おまえを!』
 諄也の愛のエネルギーが思いの限りを、熱く、激しく、これでもかみたいにまり慧の心に訴えてくる。
「・・苦しい、胸が・・・」
『ごめん、悪かった・・・おれと一体になっていることをおまえに確信させたかったんだ』
「ひどい人・・・・・だけど少し信じることができたわ、とっても不思議だけど。―――姿が・・・」
『うん?』
「あなたの姿が見えない・・・」
『心に念じてごらん、おれを思い浮かべて』
「ええ・・・・・」
『おれが見えたかい?』
「・・想像して、なんとか・・・。あなたにはわたしが見えるの?」
『御本尊様に不自惜身命のお仕えをした功徳で、おれは神通力を授かったんだ。だからおまえの生
命をおれの中に入れることができたんだ。それだけじゃないよ、おまえにどんな危険が及んでもおれ
の祈りで救うことが出来る。・・・色心不二って知ってるだろう?』
「ええ」
『おれが生きて御本尊様を信仰している限り、おまえも生き続けることができる。・・だが、昨日みた
いな無謀は二度と許されないよ・・・』
「!・・・あなたがわたしを見捨てたと思って、それで辛くって・・」
『おれはね、おまえを見捨てたりなど絶対できないんだ、そんな無責任な男じゃないぜ、おれ・・・信
じられないかい?』
「・・会社のことも・・メールのことも・・わたしには許せなかったのよ!」
『・・そうだな・・・辛い思いをさせてしまった。・・・許してくれ!』
「!・・・・・」
『まり慧・・・今生こそ成仏を遂げて幸福になろうって約束、まだ覚えているかい?』
「・・今のわたしには夢みたいな話よ・・・」
『信じるんだ!・・・いっしょに成仏を目指すんだ!・・・最後はおれと手を取り合って命終するんだ
よ、おまえは』
「・・相変わらず強引ね、あなたは・・・・・わたしには諄也さんとこうやって話してることすら、なんだか・・・」
『・・・難信難解だからな・・この仏法は』
「・・ほんとに難信難解だわ。―――ねえ、諄也さん、わたし、あなたとずっとこんなお喋りができるの?」
『・・今は何もわからないおまえの為にいろいろな話をしたが、これからはおまえの話し掛けに相槌程
度の簡単な言葉しか発せられないんだ・・・わかってほしい』
「無口で物静かな夫だと思えってわけ、諄也さんを・・・?」
『そうだ・・・すまんが。・・・本来ならおれとおまえが愛しあうことは世法でも仏法でも決して許されるこ
とじゃないんだ・・・邪淫の報いが如何に苛烈を極めるか、おまえだって・・・』
「・・人の煩悩って、自分ではどうにもならないもの・・・悲しいけど」
『末法の衆生はどんな戒律を持ってしても煩悩を滅することは不可能なんだ。だから仏様は煩悩即菩
提を説かれているんだよ。おれたちの愛欲だって仏様を信じ抜けば、そのままで菩提に昇華するんだ。
・・・こんな形でおれたちが愛しあえるのも、すべては御本尊様のありがたい御慈悲と受け止めなくては
いけないよ。―――まり慧、おまえにはこれから想像もつかん難がいっぱい襲ってくるだろうが、おれが
いつもそばにいることを信じて、がんばっておくれ』
「・・わかったわ。・・でも・・わたしにその信力があるかどうか・・自信がないわ」
『おれと一体になれるのはおまえだけなんだ・・・玄宗のときも秀吉のときもおれを守り抜いてくれたじゃ
ないか・・・自分を信じてくれ』
「・・やっぱり強引な人・・・けれど、あなたについていくしかないわ。・・・それしかわたしにできないもの」
『まり慧!!―――』
 まり慧の感情とは別のところで切ない思いが胸に溢れた。諄也の感情だった。わが心に諄也が居座
っているようで――本当は逆なのだが――可笑しさが込み上げてくる。・・・諄也の声や感情が、まさか
自分の願望の産物ではという不安をいまいち払拭できないまり慧なのだが・・・・・

 二人の生命合体の生活が始まった。メールや電話の去年が最初の蜜月なら、今度は第二の、いや
今度こそ本当のハネムーンになった。なにせ二人は片時も離れず一体の色心だったから。
 諄也もまり慧も初めての合体に甘く酔った・・・確かに。だが四六時中だ、諄也がまり慧にピタリとは
りついているのは。いくらなんでもいい加減、息が詰まる。窮屈だった。排泄だってオナラだってまま
ならない。つまらないことでも気にするのが女心だ。とにかくまり慧は気恥ずかしくてたまらなかったの
だ、諄也の目が。
「わたしを見ないで!・・・ぶざまなところを覗かれたくないのよ」
『おれは覗き見をしているんじゃないぜ、おまえが嫌がるところなんか見ないさ・・・愛しているんだぜ、
おまえを』
「そんなこといったって・・・わたしがオナラしたら軽蔑するにきまってるわよ、あなただって」
『まり慧、おれを信じるんだ・・・おまえのすべてを受け止められるおれでなかったら、仏様は一体にさ
せるはずがないんだ・・・素直に信じておくれよ』
「・・素直に・・・あなたを?」
『うん』
「・・わかったわ・・・」




                               




 (十七)
 ひと月半も経てば、まり慧もどうにか難信難解な合体生活に順応してきた。ちっぽけな悩みも笑い話に消
えていった。あれほど意識した諄也の目がなくてはならぬ酸素的愛となった。そうなりゃ、自然に肩のパット
もはずれて、『あなた』より『あんた』に気心も馴染んで、ひもすがら「あんた、あんた」と諄也を呼び出すよう
になった・・・

 諄也は実に非凡な男だった。表では出しゃばりの悪妻に頭を押さえつけられている抜け目のない凡人を
振る舞っていても、裏では人並みはずれた仏道修行によって得難い神通力を身につけ、すべては御仏智
のままに愛しい永遠の妻を命がけの信心で護ろうというのだ。明天子玄宗、天下人秀吉の生まれ変わりと、
なるほど頷ける。

 非凡な男の愛を受け入れるまり慧も、その苦労を思えば凡人に非ずだったかもしれない。諄也と生命が
一つになってからというもの、どんな障魔が吹こうともそのことを信じ抜かねばならぬ宿命を背負った。実
際、さし迫った生活苦、体の不調、一向見つからぬ仕事、どう考えても生き延びれる目処は全く立たぬま
り慧なのだ。だのに心に感じるだけの、目に見えない男の祈りを信じ切って日々を過ごす心地ときたら・・・・・!
 心労は他にもあった。宿縁ある男の生命と一体になり感応すれば、過去世の姿がまざまざと蘇ってくる。
御本尊様の前に座ると、その人の生命が正境に縁してありのままの姿が顕われるというが、まり慧も例外
ではなかった。勤行中、あの時、あの時代の楊貴妃と淀殿の心情が蘇って、無念の恨みが噴出した。とり
わけ現世に至るまで己の真実が明らかにされず、デッチあげられた虚像に辱しめられるまり慧の苦しみと
きたら・・・・・!
 時代を超え、楊貴妃や淀殿を讒訴のような文献で妄想たくましく辱しめる者の報いというものをまり慧は
いのちに悟った。が、その者たちの事実無根の破廉恥な中傷が、楊貴妃や淀殿が滅して猶、その生まれ
変わりである自分の生命を汚し、生まれ変わり死に変わり生命に悪影響を及ぼし続けていくことも悟った。
恐ろしい因縁だった。
 すべての元凶、不幸の根源は邪淫という破戒にあった・・・と、まり慧は思い込んでいる。(が、真実
は、どれほど純粋に愛しても絶対正妻にはなれない、邪淫でしか結ばれることが出来ない境界で常に生
まれて来なければならぬまり慧の生命に問題があったのだ。・・・まり慧の生命に地獄の悪因縁が巣食っ
ていた)そこに行き当たれば、怒りの矛先は自ずと玄宗、秀吉――諄也に向けられる。日頃の好いたは
れたも吹っ飛んで、まり慧はさながら怨念の化身となって諄也に責め狂うばかりだった。鎮められるのは
ただ、不自惜身命の信心しかない・・・・・命をかけた諄也の祈りはやがて御本尊様の不可思議な功力を
もたらし、恨みの業火に焼き爛れた生命に清風を吹かし、永遠の純愛に二人が結ばれている真実をまり
慧に気づかせるのだった。・・・・・そうして、
「あんた・・・」
『ここにいるよ』
 二人の語らいがまた始まる・・・・・


 夢見心地で暮らした霜月も過ぎ、年の瀬もおし迫って早や師走の御用納め。その日は朝から雨足の強
い横なぐりの雨が降っていた。冷たい雨滴がサッシ戸を伝い落ちていく。
 洋介から電話が掛かってきた。自分から電話をよこすなど滅相ないことだ。
「まり慧、今忙しいか?」
 声が弱々しい。
「職安へ行くところやったんやけど・・どうしたの?・・・しんどそうやけど」
「ああ・・・めしが全然入らんようになった・・・。芳樹に連絡したんや、迎えに来てくれって」
「入院するんやね、その方がいいわ・・・病院はどこ?」
「○○病院や」
「わたしも帰りに寄るわ。欲しいもの―――」
「なごないな、わし・・・」
「なに言うてるの、入院したらようなるわ・・・点滴したら体も楽になるし」
「・・ひと月持たんやろな、このあんばいやったら」
「お父さん!」
「・・まり慧、お前に話しときたいことがある」
 思いつめたフシの洋介をあやすように、「病院でゆっくり・・・」と軽く言いかけたまり慧だったが、呑み込
んだ。死を意識した父の意に逆らうことはできなかった。
「何やの?・・・」
「この家のことやけどな・・・・・わしが死んだら更地にして売ってくれ」
「売るって、兄さんが家を建て直しするんでしょう?」
「・・売った金を春乃と芳樹とお前の三人で分けるんや、ええか」
「そんなこと・・・兄さんが承知するはずがないし、第一、お父さんが芳樹に後を継がせるんやていつも言
うてたやないの」
「・・そう思とったが、芳樹はあの通りの器量や、嫁に逆らって母親や妹にあんじょうする気の利いたまね
が出来る奴やない。・・・もともとわしは、幾ばくかでもみんなに金を残してやりたかった・・・苦労したのは
春乃や芳樹だけやない、お前だって随分辛い思いをしたんやからな」
「・・お父さん・・・」
「素知らぬ顔して遊びほうけとったが、おまえらが苦しんでいるのはようわかっていた・・・そやけどどうに
もならんかった、戦争で狂わされた運命が口惜しいて馬鹿らしいて、パチンコで慰めらなやりきれんかっ
たんや。―――昔のこと言うても仕様がないわ」
 洋介はかすれた声を出した。息が続かないから笑い声にもならなかった。
「・・いっつも憎まれ口たたいていたけど・・ほんまはわたしらのこと辛かったんでしょう・・・ずっと前からそ
んな気がしてた・・・」
「・・お前、気いついとったんか・・・」
「うん・・・」
「そうか・・・・・。―――芳樹の手前、遺言は残されへんけど、調停でも何でもして遺産は分割するんや、
わかったか?」
「・・反対するわ、お母さんも兄さんも・・・」
「わしが粉塵の降り積もるこのあばら屋に体こわしてでも辛抱してたのは、自分を罰する気持ちもあった
んはほんまやが、おまえらみんなに遺産を分けてやりたかったからや・・・」
「それで・・兄さんとこへ行かへんかったんか?・・・空の見える廃屋で埃にまみれながら身体を苛めてたん
か?・・・なんでそこまでせなあかんの?!」
「・・わしの精一杯の罪滅ぼしや・・・」
「お父さん!・・・」
「・・春乃のこと・・頼むわ。・・・長生きさせてやってほしい」
「・・さんざん悪態ついても・・やっぱり気に掛けとったんやね、お母さんのこと」
「誰が気に掛けるか!あんなアホ・・・」
 洋介のいつもの罵りが出た。・・その後に続く父の本心、真心がまり慧には聞こえる・・・
『されど、わが妻や・・・』
 
 洋介の病名は末期の肺癌だった。肺炎を併発しているから数日中にも危篤に陥るかもしれないと医者は
告げた。
 さすがに春乃も妻の動揺を見せた。芳樹の深刻な顔には彼なりの後悔がのぞく。幸せになるまでは父は
絶対死なないと、少女趣味的に信じていたまり慧のショックは言わずもがなだった。
 二週間後、洋介は逝った。意識があるときは芳樹やまり慧の看病に涙を滲ませた一幕もあったが、家族
に看取られて来世へ旅立つ顔は、思い残すことのない穏やかな相だった。

 洋介の葬儀は杉原家の宗旨である天台宗であげられた。春乃が日蓮正宗でやってくれと手をついて芳樹
に頼んだが、相手にもされず喪主の座も奪われた。洋介を折伏できなくとも、死んだら芳樹が正宗を信仰して
くれるだろうと安易に目論んでいた春乃の思惑は外れた。勤行もして来なかった長年の懈怠謗法が祟った
わけだ。不正直な春乃の内得信仰によって杉原家に日蓮正宗の法灯を灯すなど、どだい虫のいい話だった。
 天台宗は南無阿弥陀仏と称名念仏を唱える宗旨である。御本仏日蓮大聖人様は念仏を無間地獄に堕ちる
因と喝破されている。
 まり慧は父親が死しても猶、無間地獄に堕し苦しみ続けるのは耐えられなかった。日蓮正宗の戒名をつけ
てもらい、芳樹の天台とは別に洋介を回向していく決意をした。さして関心もない春乃を説き伏せ、ともに追善
回向にお寺へ詣でることにしたが・・・

 西高東低の吹きすさぶ風が吸い込む肺の奥まで震えさす寒い日だった。洋介の初七日の回向を済ませて、
まり慧と春乃はお寺から出てきた。・・・駅まで5分ほどある。
「なあ、まり慧・・・」
 春乃は冷たい寒風に目を瞬かせながら、いつになくしんみりした調子で切り出した。
「お金ないんやろ?・・・・・働いてないさかいになあ」
「・・・・・」
「切羽詰っているのとちがうんか?」
「・・なんで?」
「お父さんの病院に来てたときも、私や芳樹は食堂に行くのに、あんた、いつも家から持ってきたおにぎりを
ほうばっていたやろ」
「・・・・・」
「二進も三進もいかへんようにな―――」
「大丈夫やったら!」
「そ、そうか・・・ほなええんやけど・・・」
「・・なんとかなるわ・・・」

 二人は駅に着いた。
 まり慧は財布を取り出した。いつも春乃の分まで買う。
 あっ!・・・
 予想したより小振りのものが6、7枚白く鈍く光っていた。出かけにあると思った百円玉はまり慧のうっかり
の願望化けだった。
「ごめん、お母さん・・・勘違いしてお金、財布に入れとくの忘れてたわ・・・ないのよ」
「そうか・・・かまへんで、払とくさかい」
「私の分はええわ・・・お寺にちょっと用、思い出したから・・・先に帰っといて」
「電車賃、どうすんの?」
「ゆっくり歩いて帰るわ・・・なにもすることないし・・・。―――お母さん、気いつけてね」
 まり慧は春乃の心配を振り切るようにくるりと踵を返した。・・・その背中に、
「まり慧!あんた、ないんやろ、一銭も」
 春乃はかなきり声をあげた。危険なとき咄嗟に出る癖だ。
 子供の頃、肝に響いたあの声にまり慧も立ちすくむしかなかった。
 まり慧の口座には今4桁の残高しかない。今日が一月二十五日で、月末には家賃や公共料金の引き落
としが目白押しだった。
 母の本能が娘の命の危機を察知したのか。・・・いかなる悪母でも母は母、子には尊い人のようだった。
 二人は昼時のまばらに空いた地下鉄に乗り込んだ。

 一駅過ぎた頃、手提げ袋をもじもじいじくっていた春乃が、意を決したように○○銀行のカードを取り出し
た。
 まり慧は見るともなく見ていた。
「先月神戸の実家の土地が売れてな・・・お金が800万ほど入ってきたんや。手数料とか税金に取られても
500万は残るさかい・・・これ、使い」
 春乃はカードを差し出した。
 母のさっきのそぶりを見ていただけに、まり慧も「はい、そうですか」とは受け取れない。
「・・お母さんだってお金がないやないの・・・・・いいわ」
「取っときて!・・・私は来月からお父さんの遺族年金が貰えるし・・・・・なんやったら、300万だけつこて200
万はおいといてくれてもええけど」
「・・ほんまにいいの、使って?」
「う、うん・・・・・芳樹は杉原の土地を貰うけど、あんたには何も入ってきえへんしな・・・」
 まり慧は洋介の四十九日が過ぎたら遺産分割の調停を申し立てるつもりだった。芳樹を溺愛している春
乃だ、知ったらずいぶん怒るだろう・・・

「まり慧、今度あんたのところへ泊りがけで遊びに行ってもええか?」
「うん、いつでも来て・・・」
「ありがとう。・・・お父さんが亡くなって芳樹が天台の仏壇祭っているやろ、私のようなチンタラ信心でもい
のちがおかしいなってくるんや。・・えらいもんやな、邪宗の害毒って」
「お母さん、兄さんを折伏せなあかんわ!」
「・・なかなかなあ・・・信心の話したらえろう叱られるさかい。加奈子さんもいっしょになって怒り出すんや
から」
 ・・困った人・・・
 もっと強盛に信力を奮い起こさなければだめよとまり慧は言いかけた。だが、止めた。勤行も出来ない
のに折伏行が出来る道理もなかった。
「そやけどな、天台で送られるのはいややで、私・・・・・まり慧、お父さんの葬儀の時の死顔見たやろ」
「・・思い出したくないわ・・・」
「えらい怒った顔してたなあ・・・・・まり慧のお題目に送られて逝ったときは、あんなに安らかやったのに」
「・・・・・」
「・・あのな、まり慧」
「何?・・・」
「私が死んだら、あんたが喪主となって日蓮正宗の葬式をあげてくれへんかな・・・・・頼むわ」
「兄さんのところにいたら、それは無理とちがう?」
「!・・・そやな・・叶わん話やな・・・」
 春乃は諦め切れないのか、イライラした鬱陶しそうな仕草で頭を掻き出した。
 ・・勝手な人なんやから・・自分のことしか考えてへん・・・でも、この先、わたし・・お母さんといっし
ょに暮らすかもしれへんな・・・ほん近いうちに・・・・・
 まり慧はふと、そんな気がした。天台を受け入れられない春乃の仏性を娘として見捨てておくわけ
にはいかなかった。


 二月一日午後二時過ぎ、警察から通報が入った。
「○○署ですが、杉原まり慧さん?」
「はい・・・?」
「花岡信一さんがね―――」
「えっ?!」
 意味のない問い返しだった。まり慧の胸が騒いだ・・・
「花岡さんがね・・・〇〇株式ていう会社の敷地内でね」
「・・・・・」
「もしもし!」
「はい・・・」
「焼身自殺しているのが発見されたんですわ」
「!!・・・うわぁーん!」
 まり慧は泣き崩れた。手から受話器が抜け落ちていった。
 信ちゃんが死んだ!・・・なんで死んだん!なんでや!なんでやねん!!・・・・・
「もしもし!・・・・・聞いてはるかな?」
 ぶら下がった電話から警官が叫んでいる。
 まり慧は信一の死から噴き出してくる悲しみの収拾がつかなかった、パニックだった。心のバランスが
崩れるかもしれないと思った。
 そのとき、
『まり慧、落ち着くんだ!』
 諄也の声が聞こえた。
『信ちゃんが死んだのよ!』
『わかっている。とにかく気を静めるんだ。な、まり慧、じーっとして』
『・・・・・』
 心が破裂するほど充満し動転していたまり慧の感情は、時化た海面が凪いでいくように平静を取り戻
していった。逆に、諄也と一体となった妙法の強靭な生命力が己心に充実してくるのを感じた・・・有り難
かった、諄也の祈りが。
「もしもし・・・わかりました。1時間程でそちらに行けると思います。・・・はい、夫の親族の住所は―――」

 信一は前日の一月三十一日の日曜日、去年まで働いていた会社の倉庫室の前で灯油をかぶって
自殺した。中学を出て三十年間、人生の大半を費やしてきた職場を死場所に選んだのにはそれなりの
理由があった・・・・・
 警察に出頭していた信一の元同僚から、まり慧は詳しい事情を聞いた。
 信一が勤めていた〇〇会社は多額の負債を抱え昨今の不況でどん底の赤字経営に陥っていた。親
会社も見切りをつけ別会社に営業譲渡した。親会社は〇〇会社には注ぎ込みっぱなしの丸損で別会
社が全部いいとこ取りをしたと弁明していたが、今回の譲渡には親会社もかなりの美味みがあった。
 〇〇会社の社長は別会社経営になっても全員の首は保証すると社員に確約していた。だが実際蓋
を開けてみると、一部の役員を除き、43歳以上の者はみな適当な部署がないとの理由で退職に追い
込まれた。社長は別会社の新たな人事に口出しはできないと開き直ったが、本人は要領よく営業部長
におさまっていた。
 体よく解雇された社員は、〇〇会社の経営陣と親会社の醜い生き残り劇で儚くも問答無用と切り捨
てられた犠牲者だった。信一たちは背信の恨みおさまらず、社長ら幹部に激しく詰め寄ったらしい。 
 トップでありながら部下も守れない無責任な人種からすれば、倉庫で働く一中年社員など自分たちの
都合でどうなろうと知ったことじゃない、今の政治の国民に対する意識みたいな存在であったろうとまり
慧は思った。しかし信一にとって会社は生涯という海を航海する唯一の船だったのだ。運命共同体だっ
た。十年暮らした妻にはその辺の夫の口惜しさ、無念が我が事として呑み込めた。
 信一の恨みさながらに、激昂したまり慧の声が取調室に炸裂した、
「花岡の命を焦がした赤い炎は、己の保身しかない、手前勝手な畜生の如き経営者に向けられた怒り
の炎だったのよ!・・・それでも夫の火が建物まで焼かなかったのは、あの人に健気な愛社精神があっ
たからだわ!・・・」 

 まり慧は警察から信一の遺書と遺品を見せられた。ボストンバッグに入れられて、遺体から3メートル
ほど離れた所に連絡先を記したメモと共にきちんと置かれてあったという。
 既に無断で開封されていたまり慧宛ての遺書を、警官が目の前で無神経に読み出した。
 嗚咽の止まらぬまり慧に、「なんで別れたんや?」と警官は訊ねた。「話したくありません」と答えたま
り慧に周りの視線が意地悪く変った。
「花岡さん、どうして死んだんやろな?」
「・・・会社に殺されたんですわ」
「ちがうやろ・・・嫁はんに逃げられたからやろが」
「・・夫はリストラされなかったら生きていたんです」
「リストラされてもあんたがおったら、旦那は死なんですんだんとちがうんか。独りは淋しいもんな・・・」
「わしもそう思うな・・・あんたと別れて生きる気力が無くなってしもたんやろ、花岡さんは」
「いい加減な憶測は言わないで!・・・遺書のどこにそんなことが書いてあるのよ!」
 結局、遺書も遺品も、早く弔ってやりたいからと要求した遺体もまり慧には引き渡されなかった。籍
を抜いているからその資格がないというのが理由で、信一の親族が来るまで待ってくれと言われた。
信一は発見後の連絡先もまり慧を指定していた。信一の意図するところは全てまり慧だったのに、
警察は元妻という立場の弱者イジメは愉しんだが、臨機応変な誠意ある対応はかけらもなかった。
 信一の兄弟たちは仕事を終えて夜になって出頭して来た。まり慧を見ていきなり、「死んだ後も迷惑
かけるんか!」の罵声だった。信一がクビになってから手のひら返して冷たくなった親族だが、やはり
心が咎めていたのか、まり慧に全ての責任をなすりつけてきた。「お前が無理やり離婚したから、弟は
死んだんや、お前が殺したんやないか!」
 まり慧は信一の遺書を親族に見せて葬儀をあげさせてくれと頼んだ。我が夫として送ってやりたいと
真心から訴えた。もとより身内の自殺者に迷惑がっていた兄弟のことで、まり慧の申し出はまさに渡り
に船となった・・・

 信一の遺書は純白の便箋にしっかりした字で丁寧に書かれ、長くはなかったが感情に走らず、空々
寂々と意志を残していた。
 まり慧は信一が幼い頃より、酒乱の父親が包丁を持って暴れ回る極貧の生き地獄の中で新聞配達
や鉄屑拾いに明け暮れ、ろくすっぽ鉛筆も握ったことがないと聞かされていたが、辞書を引き引き懸命
に綴ったのであろう、その遺書はどの漢字も一画一画略されず、いじらしいほど正確に書かれてあった・・・

   45年の人生で僕を裏切らなかったのはたった一人、まりちゃんだけです。そのまりちゃんを裏
  切り、いじめてしまった。今でも悪いことをしたとよく後悔します。リセットできない自分に腹が立っ
  て、いつも泣いている。
   あの日まりちゃんと別れてから毎日、僕は南無妙法蓮華経を唱えています。心がきれいになっ
  てなんだか勇気が出てきます。善いことをしたいと、有り難いほとけさまに願うともっと勇気が湧
  いてくる。うれしいです。
   僕はまりちゃんを助けたい。僕が助けなければまりちゃんはきっと死んでしまう。
   400万円を普通為替とかいうもので送ります。このお金があればまりちゃんは必ず生き抜ける
  と有り難いほとけさまは教えてくれた。二十歳の時荒れる海で溺れていた子供を助けたときみた
  いに、僕の心は今幸福でキラキラしている。永遠に明るい気持ちになって行きそうです。
   まりちゃん、二人が楽しかった頃の夫の僕をずっと覚えていてください。
   僕の願いはそれしかない。
                                                      信一

 まり慧は信一の葬儀を日蓮正宗で精一杯厳かにあげた。信一の尊い清らかな志に報いたいと、総
本山と末寺で永代供養を立てた。信一の骨も、洋介の遺産が入れば大石寺に墓を建て、分骨した父
の骨とともに埋葬するつもりだった。自分に命がある限り、信一の菩提を追善回向していこうとまり慧
は思った。この女人の純粋な一念が御本尊様の絶大な功徳を、死者の信一にも生者のまり慧や有縁
の者にももたらすであろうことは必然的だった。 
 
 まり慧という女は、生まれた時から父母にも見捨てられ、夫からも背かれ、熱く思慕した永遠の愛に
も巡り会えこそすれ、現世で結ばれることはなかった。しかし、日蓮正宗の御本尊様と出会い、妙法を
信受してゆくなかに、周りの不幸な因縁が本来あるべき姿を取り戻していくことを知った。一心欲見仏
 不自惜身命の純信な信行が巡り巡って迷妄の闇に沈む父母、夫、そして自分と諄也の生命を救い、
真実を顕し、蘇生させることを悟ったのだ。




                               




 (十八)
 三月十三日、まり慧は半年ぶりの御報恩御講に出た。諄也の会社をクビになって以来、信徒が集まる場
にはずっと足が遠のいていた。
 諄也は法華講の役員をしていた。その法華講の中に諄也の会社で働く信徒がいて、まり慧が解雇され
たいきさつや会社で流れていた悪質な噂も知っていた。
 その信徒がまり慧を風聞よろしからぬ女性と法華講のメンバーに吹聴したとは信じたくなかったが、解
雇の翌月会合に出ると、一部信徒達の態度がいやに冷たくよそよそしく、白い目の蔑視を受けた。それか
らは、清浄な修行の場が針の筵となった。
 まり慧は自分のような世間から馬鹿にされる人並み外れた弱者でも、日蓮正宗の法華講なら尊厳と誇
りを持ってその和に入り活動出来ると純情一路に信じていた。が、それがままならぬ因縁もあるのだと思い
知った。世俗と変わらぬ、どろついた人間模様に純信が大きく揺らぎ傷ついた。弱者の負い目もあって、ま
り慧はひっそりと組織を去った。
 法華講は清らかな信心で結ばれた異体同心の組織だ。だが、そこに集まる人たちにも様々な因縁や罪
障がある。まり慧には法華講の人間関係で苦しまねばならぬ罪障があったのだ。・・・自分の罪障だという
のが信心歴の浅いまり慧にはイマイチ理解出来なかったが。
 信一の死が転機となった。御本尊様を拝んだこともなければたもったこともない信一の命を捨てた潔い
信仰が、人間関係の臆病風に取りつかれていたまり慧の信心に凛然とした衝撃を走らせた。信一の無垢
な信仰の前に、まり慧の卑屈や恐れなどちっぽけな風塵となって消し飛んでいった。
 まり慧は今、己の純信な信心を誰に憚ることなく臆することなく、堂々と毅然と奮い立たせて本堂に座って
いた・・・・・

 午後一時から始まった御報恩御講は献膳、読経、唱題、法話と如法に従って奉修され、二時過ぎに
終了した。その後は講頭の挨拶、役員からの連絡事項と続く。
 講頭がマイクを手にして立ち上がった。が、まり慧は見ない。俯いたままだ。諄也を見ると、あの日の
恨みが蘇って来そうで辛い。声も聞きたくなかったが、耳を塞ぐのも人目が気になる。まり慧は紅潮し
た顔を幾分緊張させ、諄也の挨拶が終わるのを待とうとしたが・・・
「佐和野です。みなさん、こんにちは。今年もはや二ヶ月が過ぎ、三月度の御講が小春日和の中―――」
 年配の太いしわがれ声がマイクを通して本堂いっぱいに響いた。無論、諄也ではない。まり慧の知る
かぎり、佐和野は確か副講頭だったはずだ。
「あの・・・喜山講頭さんは?」
 隣に座っていた老夫婦の信徒に思わずまり慧は尋ねた。
「喜山さんは去年の暮れで講頭を辞められたよ。一身上の都合とか言って・・・」
「一身上の都合・・・?」
「喜山さん、先月頃からお姿もお見かけしなくなったわね・・・ねっ、お父さん?」
「そうだな・・・今日も・・・来られておらんと思うがな」
 老人は筋張った首をぐいとめぐらして諄也を探しだした。その視線の先をまり慧も必死に追いかけてい
る・・・

『あんた、なにがあったの?・・・今どこにいるの?』
『おまえの中にいるじゃないか』
『表の諄也さんのことよ』
『表のおれを求めるんじゃない。おまえが苦しくなるだけなんだ。おれの状況が変っても、どこにいても、
おまえと一体に変りはないんだぜ』
『・・でも・・・知りたいのよ』
『おれはここにいる・・・わかってくれ』

 心の諄也が頑として取り合ってくれなくても、実際諄也の身に変化は起きていた。目の前の現実にま
り慧はどうにもならぬ拘泥を覚えた。顔見知りの誰かれに諄也のことを聞き出したい思いを紙一重で抑
えながら、夢うつつでお寺を後にした。


 まり慧が家に戻ると、ポーチにかがみ込んで無心に花植えをしている紗李の姿があった。
 門扉を開けると、紗李は手を止め、無言のまま、散らかった苗のパックや花を埋め込むばかりに仕上が
ったポットを自分のまわりにかき集め、まり慧の通り道を作った。
 ポーチに入って、まり慧の目は吸い寄せられるように手摺の色彩に魅せられた。紗李が狼藉を働いて
以来土が剥き出しになってむさくるしかった空っぽの鉢に、パンジーの白、黄、紫の柔らかな薄紙みたい
な花びらが可憐に美しくうねっていた。

「紗李さん・・・」
「お帰り。どこに行ってたの?」
 二人が口をきくのは八ヶ月ぶりだ。思いなしかしゃあしゃあとした紗李の様子に、まり慧のほうがわ
だかまりを感じた。
「・・・お寺よ・・・久しぶりにお講に参詣したの」
「・・南無妙法蓮華経?」
「そうよ」
「ふーん・・・不思議な仏様ね」
「・・ええ」
「本音を暴いてやった・・・」
「なに?」
「・・わたし、Mから護られたわ」
「・・そう・・・」
「あの後おばさんに言われたことがむかついてさ、私、Mをひっかけたの・・・私よりカワイイ子紹介して
あげようかって。そうしたら、M、写真を比べてどっちか選ぶっていうのよ。・・・おばさんの言うとおりだ
った」
「・・まだ、出会い系、懲りずにやってるの?」
「ううん・・・携帯も解約したわ」
「よかった・・・」
 まり慧の顔に菩薩の安堵が広がった。
「おばさんの南無妙法蓮華経のおかげかな・・・」
「だと思いたいわね。―――ねえ、このお花、パンジーよね・・・フンワリやさしい花びらが大好き」
「おばさんの草、ひっこ抜いたオワビじゃないわよ、花は・・・だってあのとき打たれたんだもの」
「じゃあ・・・?」
「・・大切な秀頼を私に守らせてくれたお礼なんだから」
「そうか・・・紗李さんはやっぱり千姫の生まれ変わりなんだね。おばさん、確信しちゃった」
「秀頼の生まれ変わりってどんな人かな・・・おばさん、わかる?・・・私、今生巡り会えるかしら?」
「・・求めているのね、あなた・・・秀頼もきっとそう、紗李さんを求めてるわ、過去世からずっと・・・」
「そうかな・・」
 紗李の大きな瞳がくるっと動くと、表情がぱあっと明るくなった。
 その様子に思わずまり慧も相好を崩した。共感したのだ、娘の無垢な喜びに。が、次の瞬間、まり慧の
目にハッと暗さが走った。
 紗李は見逃さなかった。
「どうしたの?」
「ううん・・・なんでもないわ」
「そうなの・・・?」
「うん・・・・・」
 まり慧は言えなかった、いのちに雷光を受けたように悟った真実を。―――秀頼の清純な生命はあの
時天守閣で共に果ててから、淀殿の生命と永劫親子の因縁が切れてしまったのだ。・・・無論、秀頼と千
姫の夫婦の因縁も永久に切れていた。・・・あれほど慈しみ、慈しまれた最愛の息子秀頼が、無始以来
地獄の生死を繰り返して来た己の生命に一瞬清麗な煌きを与えてくれた流星のような、儚い因縁だった
とは・・・・・まり慧は御仏様から諭された真実を信じたくなかった。

 二人でポーチを片付けた後、まり慧は紗李と久しぶりに茶を飲んだ。ランが部屋を走り回る中、暫し紗
李の若い話にまり慧は引き込まれた。父と信一のたて続けの悲しみで滅入りっぱなしだった心に、明るい
笑いが新鮮な活性剤となってまり慧を元気づけた。
 夕方、紗李はまり慧について初めて勤行をした。お経が難しい、足が痛いとこぼしたが、帰り際、
「おばさん、またいっしょに勤行をやらせて。・・・わたし・・今度お寺にも行ってみる」
「紗李さん!・・・・・。―――わかったわ、これからどんどんお誘いするわね」 
 菩薩の歓喜に酔いしれるままに紗李を見送り、ポーチに立ち尽くすまり慧だった。その口許から、ただ、
ただ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と御本尊様の御名を唱える御報恩の微かな声が聞こえた。


 紗李が帰って一時間もせぬうちに、例の拘泥がむくむくと頭をもたげて来た。迷いの霧中であれこれ思
い巡らしても心の夫は知らぬそぶり、何も答えてくれない。まり慧はせっつかずにはいられなかった、あ
んた、教えておくれよ、あんた、あんたと・・・
『しょうがねえな、おまえってやつは・・・』
『だって気になるのよ、あんたのことが・・・』
『気になる気になるって、おれのメール、読み残したのは気にならないのかい?』
『メール?』
 ああ、そうかと、まり慧は諄也の最後のメールが読みかけだったことを思い出した。
『それに事情が書いてあるの?』
『とにかく読んでごらん』
『わかった・・・読んでみるわ』
 まり慧は不承不承携帯を取りに立ち上がった。機器を触るのもタブーの、あの日の辛いメールだったが・・・・・

 電源を入れると、待ち受け画面の諄也が笑いながら現れた。人なつっこい、それでいてなにもかも包み
込んでしまいそうな複雑な微笑み、とろける愛情。メールボタンをクリックしようとするまり慧の指が、宙で止
まった、
『あんた・・・』 
『読むんだ』
 まり慧の指が勝手に動いてボタンをクリックした。痺れを切らした諄也の意思が働いたかに見えた・・・


      まり慧、おまえがここを読む頃には俺たちはもう一体になっているだろうね。俺、待ち
     遠しいよ、その日が。
      おまえを愛してる。狂いそうなほどだ。会社の俺からは信じられないだろうけど、本当
     なんだ。破戒とわかっていてもどうにもならない。おまえを抱きしめ、俺の想いの限りを
     尽くしたい、それでおまえが地獄に堕ちないんだったら・・・・・
      目蓮尊者が餓鬼道に堕ちたお母さんを救う為に神通力で食べ物を送った話、覚えてる
     だろう。食べ物はお母さんが掴むとみな火に変ってしまった。俺たちの関係もどこか似て
     いる。俺がおまえを思ってしてやること、みんなおまえを潰してしまうもの。おまえという女
     は俺の愛欲がからむと、人からとことん辱しめられる宿業があるんだ。苦しめるんだ、俺の
     愛がおまえを・・・こんなにおまえが好きなのに、四六時中まり慧のことしかないのに・・・
      目蓮尊者は法華経に至って成仏し、その功徳によって母親を成仏させた。俺もこの身を
     日蓮正宗の御本尊様に捧げる。その功徳によっておまえを守り、二人の愛を永遠に貫い
     て見せる。この決意をさせたのはおまえの純信のおかげなんだ。おまえが表の俺の悪を
     破折してくれたからだよ。
      まり慧、表は袖触れ合うことも許されない、どこまでも赤の他人の二人だが、裏は身も心
     も一体の永遠の夫婦だ。俺はおまえと出会ってから、真実の意味で男の悦びを知った。実
     際の肉体の結合は今生絶対許されないが、来世まで楽しみに待つよ。俺の純愛を信じ抜い
     てほしい。
      おまえの過去世はいとしい貴妃、かわいいお茶々。俺はといえばいつの世もおまえを守
     れなかったダメ君子の玄宗、秀吉だ。それだけじゃない、二人の道ならぬ悲恋はこの星の
     歴史に幾度か華やかに現れ、儚く消えて行ったことだろう、お互いの真実を闇深く葬り去ら
     れてね・・・
      一つ気がかりがある。それは秀頼のことだ。最後まで豊臣の正義を堅守し、立派に死花
     を咲かせた秀頼だが、家康の奸計で日の目を見ることも叶わず無慚に踏み躙られてしまっ
     た。家康が口きけぬ死者に着せた命乞いの濡れ衣は、今日までずっと健在さ。可哀相に、
     秀頼の生命は今だに自分の真実の安息場所を求めてもがき、あの子本来の本領を発揮で
     きずにいる。・・・秀頼のやるせない無念が、俺の神通力に訴えかけてくるんだ。
     

『あんたも感じていたのね・・・』
『ああ・・・秀頼の生命は大坂落城のときからずっと苦しんでいる。おまえと同じで、真の成仏を遂げていないんだ。
・・・不憫だ!』
『助けて!・・・わたしたちのかわいい秀頼なのよ!』
『おまえのいのちに悟った真実を小説に書くんだ、そして世に訴える・・・それしか秀頼は真実を顕すことが出来
ないんだ』         
『あんた!・・・』     
『信じるんだ!・・・今生、秀頼の生命は必ず救われる!』

   
      主君である俺の遺命に背き、卑劣なやり方で女子供から豊臣の天下を盗み取っていった
     家康の大逆罪、俺を裏切り家康に転んだおねや恩顧の武将の背信、己の保身の為に豊臣
     の篤い恩義も忘れ逆臣に追随した諸大名の畜生にも劣る不知恩、これらの所業は、家康が
     強者のほざくまやかしの正義でどれだけ厚く封印しようとも、弱肉強食の定めが人の世の常
     と開きなおっても、悪は悪、地獄餓鬼畜生道の悪行なのだ。悪業の報いは当然不幸な悪果
     しかない、当人たちは言うに及ばず、周りの因縁も国家をも巻き込んでね。
      徳川の天下は三世紀の長きに亘って続いたが、所詮は悪知恵を駆使して握った悪人の天
     下だ。表面は鼓腹撃壌の世でも真の中味は、力で民を押さえつけただけの理不尽な弱肉強
     食の封建治世を無策に守株しただけだった。不幸な悪果だよ。 
      だが、ほんとうの、もともとの悪は主君だった俺から始まっているんだ。家康らの悪業の根
     源は秀吉にある。秀吉の悪業が縁となって、おまえたちが家康に亡ぼされる悪因縁をよんで
     しまったんだ。俺の悪を、秀吉の真実を、まり慧、小説に書いておくれ。でないと、この悪因縁
     は永劫続いていく。なんとしてでも断ち切らなくては、真の幸福は誰にも来やしないよ。         
      家康が今、策略のスグレモノとして現代人の高い支持を受けている。俺の天下を盗み取る
     だけで真の勇気も慈悲も智慧もない、凡人の家康がだ。反対に、道理を貫く為捨て身で立ち
     向った非凡ともいえる純真な豊臣は、時代の流れもわからぬ思い上がった馬鹿者として今日
     まで不当な恥辱にまみれたままだ。ことにお茶々、おまえへの辱しめには俺も胸が痛む。淫
     乱で高慢な、生きる為にはなりふりかまわぬ恥をさらしたと悪口罵詈する輩も多いが、真実
     のお茶々は側室の軽んじられる弱い立場でありながら、最後まで夫秀吉を守り抜き、城主秀
     頼とともに城と運命をともにしたのだ。天下人の妻、世継ぎの母を命をかけて誠実に全うした尊
     い女性を辱しめる罪は決して軽くはないよ。今時の日本女性が純潔や貞操観念を喪失し、世
     界でもカルイ日本女と蔑視されている現象を見ても、絶対に辱しめてはならん女性を無慚に辱
     しめている報いが顕われているんだ。
      とにかく、家康が陰湿な力で抹殺した豊臣の真実は、単に歴史上の解釈の相違といった次
     元ですまされることではない。国の存亡にもかかわる重大事なんだ。


『・・どういうことなの?』
『うん・・先を読んでおくれ』


      四百年前に家康が仕組んだ、秀頼の命乞いの嘘が現代までずっと日本国民を欺き
     続けている。要するに家康は、豊臣をおとしめることで正義と邪義、有能と無能、非凡
     と凡庸とを巧妙にスリカエたのさ。この欺瞞が日本人の本当の智慧の目を塞ぎ総愚民
     にしてしまっているんだ。 
      家康が強いた目眩ましの愚民政策はその後も時代時代に現れた、力だけの凡庸な
     権力者たちによって王道と謳われ、もっけのお手本とされてきた。不幸なことに、今の
     日本もまたその方向に向かいつつあると思う。
      家康ばりの悪知恵だけで、為政者として何ら真の能力も器量もない凡々たる権力者
     たちが跳梁する世というのは、過去の歴史がそうであったように、少数の強者が多数
     の弱者を力で抑圧し虐げる世紀末的な不平等社会の再来を予感させるものだ。
      まり慧、お前も、今の政治、経済、教育、文化の各界に吹き荒れている弱肉強食の
     畜生の性を感じるだろう。一律一様でない千差万別の弱者のアイデンティティ、権利、
     尊厳、可能性を理解し認容しようとしない歪ともいえる姿勢が正当化され、競争勝組
     一辺倒に心酔した強者崇拝の偏頗な価値観が、日本の上層部から下層部へとトップ
     ダウン式に浸透しつつあるが、力こそ道理、正義、力こそ至福の、力至上主義(アメリ
     カの合理主義や他国への民主化支援も実体はこれで、聞こえのいい美名はスリカエさ)
     が世に蔓延すれば日本の将来は暗澹たるものだ。また、虎の威を借る狐のような今の
     力に依存する外交政策も気がかりだ。近い未来には、実質アメリカの属国的地位立場
     が国際社会で成り立っているかもしれないからね。
      いつの時代も力になびき、力に枉惑され、力に盲従する愚かな人々はいる。その愚
     かしい国民を目眩ましのスリカエで煽り、支持を得、実はわが身の利益と保身に執心
     している輩が今の世にもひしめいているが、そのトップリーダーが小泉氏ではないかし
     ら。小泉氏は家康を真似た悪知恵ととてつもない権力を備えているが、政治家としての
     資質は劣悪だ。エゴの我見に走りすぎる。計算ずくのパフォーマンスではじき出す人気
     に支えられた小泉内閣の実体はまさに無能、無責任、無慈悲の三悪無を象徴している
     ね。情けないことだが。この先もずっと、実体は力至上主義の無能な為政者が出てきて、
     目眩ましのスリカエ手法で愚かな民意が煽動されるようなことが続けば、俺はファッショ
     の危惧すら考えてしまう。弱者強者すべての人の安穏な共存を願う善良な人々の真の
     民意路線とはおよそかけ離れた日本に堕落するのではないかと、俺は非常に気がかり
     なんだ。国に力が勝ち誇り悪となって充満すれば、なんたって行き着く果ては亡国しか
     ないのだからね。
      この未曾有の危機を迎えて(俺にはそう思えてならない)大切なのは、純粋に真実を
     欲し求める純真な生命、魂だと思う。前にも書いたけれど、真実を明らかにすることは全
     ての物事を正しい方向に向かわせ、収める。悪因縁を断ち切る唯一の救済策なんだ。
      家康が日本人の純真な魂に暗い影を落とした、汚れた呪縛の悪因縁を断てば、家康や
     徳川幕府の本質が自ずと明らかになる。そうなれば、家康の猿真似をして日本を誑かす
     今のトップのような権力者との悪因縁も切れるんだ。日本という国が不幸な悪の因縁か
     ら根本的に解放されるんだよ。
      まり慧、真実を訴えるんだ。小説の中で二人の命が悟った当事者にしかわからない本
     当のことを書いてくれ。きっと、吃驚するような障魔が次から次におまえを襲い苦しめる
     かもしれない。御本尊様の守りなくしては絶対にこの事は成し遂げられないと思う。それ
     ほど過去世からの邪悪な因縁がおまえの生命にはびっしりと取り巻いているんだ。
      人が読めば何の考証もなしに妄想狂かと思うだろうと、おまえは案じるかもしれない。
     だがおまえがこの小説を書くという因縁が、凡夫には予測できない不可思議な現証を起
     こすんだ。俺は、家康がしらみつぶしに抹殺した豊臣の真実が新たに発見される気がし
     てならん。
      まり慧、俺と一体となって世に訴えよう。勇気と慈悲と智慧を持って、命がけで。おれ
     たちの後にはきっと、清らかな勇者が力に葬られた真実を求めて二陣三陣と続くよ。
      おまえを護る、御本尊様にこの身を捨ててね・・・・・信じてくれ。
      愛しているよ、まり慧・・・本当に、おれはおまえだけなんだ。
 
                                                      諄也より



 例年の如く、弥生の晦近くなって咲き始めた桜花も束の間のにぎわいを見せて、惜しげもなく散り果てた。
その頃まり慧は諄也の消息を耳にした。あれほど知りたかった情報は寺掃除の際、古澤那美江を中心とし
た井戸端ならぬトイレ会議で偶然耳にした。
「ねえ、古澤さん、前の講頭さん、二月頃から全然見かけないわね?」
「まあ、あきれた。・・知らなかったの?」
「えっ?」
「喜山さん、会社の若い女の子、数人辞めさせて責任を取ってね・・・退職して出家されたのよ」
「へえーっ、あの年で?」
「一般得度もあるのよ」
「ふーん。でも、小僧さんから修行するんでしょ。喜山さん、辛抱できるのかしら?」
「これっ!罰当たりなこというんじゃないの」

『あんた、出家したの?』
『うん・・』
『・・日蓮正宗の喜山御尊師になるのね・・・』
『・・そう、なりたい・・・』
『なれるわ・・・あんたなら』
『おれ、いつかきっと、おまえと師弟の因縁を結ばせてほしいと仏様に願ってる。そうすれば・・・』
『そうすれば?』
『二人は永遠に一体になれる。二度と引き裂かれることはないよ・・・』 
『もう、邪淫の因縁に苦しむことも、あんたの底なしの愛を求めてさ迷うこともないのね・・・』
『そうだ・・・今度こそおまえもおれも安穏な最後を迎えることができるんだ。今生こそ成仏が叶うんだよ。
―――まり慧、いっしょにお題目を唱えよう』
『はい』 
『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経―――』
 手洗い場の鏡を磨くまり慧の顔が一瞬あるかなきかの微笑を滲ませながら、白くふぁっと高貴に輝い
た。そのいい尽くせない柔和な、霊妙とも思える美しい表情は、仏界の生命から溢れ出してくる至福の
歓喜だったのだろうか・・・・・


                                                            ( 完 )